第301話 命運
【あの日の夜】
【テイクンシティー 南側】
【城壁近く】
時刻は、眠りにつくにはまだ早い夜。
これは、ある間抜けな見えざる者の話である。
「アレレ、ネムイ……ネムイ?」
その者はその日、優雅にシティーを飛んでいた。
人の手のひらほどしかない、小さな小さな羽根を動かすのだが、どうにも眠気でふらついてしまう。
狭い路地を抜けて進む。真っ直ぐ飛べずに、迂回、またも迂回。何度も障害物にぶつかってしまうのだ。
何か、身体がおかしい。それに、何か忘れてしまっているような。
『何をしているんだぁ! ギギ』
「マンキャストサマ」
その時、予想もしていなかった通信が入った。彼が仕えている兄弟、マンキャストからだ。
羽根に無理やり取り付けられた、醜い機械。機械から、いつも通りの甲高い声が聞こえてくる。
人間も使うというこの機械、羽根が重いのは機械のせいもあるのではないか。機械好きも、ここまで来れば迷惑なだけ。
だが、そのようなことを軽々しく口にすれば、その日が彼の命日に変わるであろう。
「マンキャストサマ、オモイオモイ」
『モンク言うなぁ、怒る、怒るぞぉ! えらいんだぁから、逆らったら恐いぞぉ! ギギ』
その者が命をかけて執着しているモノを貶せば、怒りが何倍にも膨れて返ってくるものだ。
「オコロナイ、オコロナイ」
『言うことを聞けぇ。そんなところで何をしているのぉだ、言ったぞぉ。ギギ』
「オーン?」
言っている意味が分からず、首を傾げる。
そう、この間抜けは忘れていたのである。兄弟に言われていたことを。
『今日は、リグベリのバカが動く日だぁ!』
「バナアアアア!!」
『だから眠る前に早く、そぉこから』
「ナンデシタッケ?」
『ばぁかぁああ!! ギギギギ』
確かに説明はされた。
だがそんなものは、この者の頭からとっくの昔に消え去ってしまっていた。この小さな頭から。
『恐いぞお、恐いぞぉ!』
「マンキャストサマ、ナンデシタッケ」
その時、彼の羽根に何かがピトッとついた。
「……アレレ?」
小さくもねっとりした、黄色い何か。
──そう、胞子である。
リグベリの胞子はまたも、彼を眠りに誘う。
「アアア、オカシイオカシイ」
ようやく眠気の理由に気付いた、愚か者。
兄弟だろうが、この胞子には関係無い。幸せな夢に引きずり込んでしまう。
「リグベリ、リグベリダ」
間抜けな愚か者でも、やっと街の異変に気付いた。オカシイのは、身体だけではなかったということだ。
本能という勘が働き、一目散に城壁の外を目指す。
この見えざる者は、今この瞬間は幸運だった。何せ、城壁の近くにいたのだから。
そして、空を飛ぶ羽根を持っていたのだから。
「ニゲル!!」
人間が眠ってしまった街の中で、何度もぶつかりながらも、城壁から外に脱出に成功した。
「ニゲタ、ニゲタゾ!」
遥か先に見えるのは、大海原。目線のすぐ先には、広い人間の住処。
この者が、長きに渡って目にしていなかった景色が広がる。
急な長旅だった。だが、ここまで来れば大丈夫だ。
窮地を脱した、筈だった。残念ながら、彼の幸運はここまでである。
「……アレレ?」
目の前でふわふわと落ちるのは、見覚えのある黄色い何か。
なんとこの恐ろしき胞子は、城壁の外まで風で届いていたのだ。最早、胞子から逃げる場所などないのか。
まだ眠気は覚めないまま、飛ぶのもままならない。
「アアア」
追い詰められたこの者は、必死に逃げ場所を探した。
いつ起きるか分からない眠りになど、つきたくはなかったのだ。背中についた胞子は、それでも眠りに誘う。
「ヤダ、ネムリタクナイ」
その時ふと、彼の瞳に映った動物の住処。
シティーに住む人間共の住処と、比べ物にならないくらい広い住処。まさに、絶好の隠れ家がそこにあったのだ。
胞子のせいか、動物達も眠りについている。
眠気で上手く飛べなくても、あの住処なら届くだろう。この者は、そう考えた。
「ソウダ、アソコダ」
簡単なこと。
眠っている動物達のどれかに、この小さな身体で隠れればいい。胞子は、動物が被ってくれる。
動物達には、どうせこの姿は見えないのだから。
この者は、それが浅はかな考えだとは思ってもいなかった。やはり、彼は不運だったのだ。
「ドケ、ミチヲアケロ!」
上手く住処に着地すると、早速動物達の様子を窺った見えざる者。
奥で眠っていた獣の、腹の下にいそいそと潜り込む。広げると、身体の二倍にもなる羽根をしまうのを忘れずに。
「アッタカイ」
その獣は胞子で眠らされ、目を閉じたまま口をもごもご動かしていた。
目を覚ます様子は無く、このままやり過ごすつもりでいた。
「キュアア」
「アレレ?」
これは寝言、と呼ばれるものだが、この者には理解出来ない。
ぐっすり眠ったままの獣。更に獣が寝たまま体勢を変え、こちらに鼻を突きつける。
この時獣は、胞子によってそれはそれは幸運な夢を見ていた。普段よりも、いっぱいいっぱい並べられた大量の餌。腹いっぱいに食べる、自身の姿。
なんという幸運なのだろう。
「キュ……」
「ハナセ」
この者は困惑しながら振り返ろうとしたのだが、重みに邪魔をされた。
──そう、この者の最も不運だったこと。
それは他の見えざる者と比べても、あまりにも小さい体躯だった。
これは幸せな夢、目の前に広がるのは大好きなリンゴと肉。よだれが出てくる。
そして獣は、大きく大きく口を開けた。
「アアア」
これを人間は、命運が尽きた、などと言う。