第215話 手招き
こちらを見下ろす海のような、静かな瞳。
少女はルノに促されるまま、少しずつ足を後ろに動かした。目は赤く滲み、腕にしずくがポタッと落ちる。
「えぐっえぐっ」
少女が退がったのを確認すると、ルノはジャンプし、軽やかに少女と見えざる者の間に降り立つ。
「……」
「フフフフ」
少女は、目の前の状況に混乱し、ただ泣くことしか出来ない。
しばらく見なかった、その顔。確かにここにいる。
「ル、ルノ」
しゃくりあげながら、その名前を呼ぶ。
だが、一人だけなのか。ルノが一人で乗り込んだようで、全く他の者の気配がしない。そう、他の剣の団の者達。
動揺する少女の前で、ルノはパンパンッと足をはたき、再び瞳に映る見えざる者を見据えた。
目の前の見えざる者も、同じ考えなのだろう。ルノ一人だけだからと、どこか余裕そうに笑みを浮かべている。
半魚人、と言うべきか。亀のような、前に突き出して尖った口。前に不自然に突き出した目。どうやって支えているのか、すぐに折れそうな程へこんだ細い腰。
何本もの水かきのついた腕。ビラビラしたヒレが、体のあちこちにくっ付いている。
異形な見た目とは裏腹に、まるで子供がはしゃいでいる時にだすような、無邪気な声。
「フフ、フフフフ」
邪魔をしに来たルノに、見えざる者は威嚇するようににじり寄る。
対するルノも、見えざる者に立ち向かうと思われたが。
「……」
ルノは足をスッと後ろに引き、後ろに退がった。
一歩、また一歩。
「フフ」
突然後ろ向きでルノが近付いてくるので、少女は驚いてパタパタと後ろに退がる。
見えざる者も、ルノの予想外の行動に驚いたのか、首を傾げゆらゆらと揺れだす。様子を窺っているようだ。
冷たいオーラを纏ったまま、ルノはちょい、と見えざる者に向かって手招きした。
「……」
「フフ?」
コツコツ、と靴で地面を軽く叩く。
見落としてしまいそうな程、僅かに笑みを浮かべて。
まるで、さっさとかかってこいと言わんばかり。
「フフ、フフフフフフ」
ダンダンダン!!
流石に見えざる者も気付いたようで、騒がしくその場で足踏みする。
目に映らない者が鳴らす音に、少女はビクッと恐怖に震えた。
再び、ルノの手招き。
「ブバァ!!」
挑発してくるルノに痺れを切らしたのか、見えざる者は一気にルノに飛びかかる。
ビラビラのヒレが大きく広がる。突き出した口から覗く、不揃いな出っ歯。
食べてやろうと、その口がガバッと大きく開かれた。
リンゴーン、リンゴーン!!
「うっ!!」
音が波動となって押し寄せる。
空間をビリビリと揺らすほどの、大きな衝撃波のような音。
これが、噂の鐘の音の正体だったのだ。いや、噂を再現した音。
「ブバァ!!」
一歩、また一歩。
退がっていくルノに、見えざる者は飛びかかろうと大きく跳ぶ。
伸ばした腕が、届くかというその時。
「ブバァアアアア!!」
どぉおおおおん!!!!
轟音。
「!?」
ルノが降り立つ前にいた穴──通り路から、真っ直ぐ叩きつけられるように、凄まじい圧が放たれた。
どごおおおおおお!!
同時に少女の目にも映る、沢山の若い幽霊達。
真っ白な顔をした、透明な人外の存在が一人、二人、いやもっと。
どごおおおおおお!!!
「ブバァアアアア!!」
霊の圧が一瞬で、見えざる者を踏み潰す。
見えざる者は声を上げる隙もなく、あっという間にボロボロになり、姿を消した。
僅かな塵のようなそれは、鱗だ。
跡には、千切れたような鱗がヒラヒラと舞うだけ。呆気に取られる少女の前で、ルノは残骸を冷たく見つめていた。
「ああああん」
小さな彼女のその小さな目から、大粒の涙が溢れだす。
ぐるりと彼女を取り囲む幽霊、いやお化け達。あまりの光景に驚いて泣きだす少女に、ルノはオロオロするしかない。
「ごめん」
「うああああん」
水の粒から、滝のように変わる涙。
えぐえぐと泣く少女を他所に、幽霊達は次々にルノにサムズアップを決め、去っていく。
今回の幽霊達は、陽気な者が多かったらしい。何故か長く伸ばした、同じ髪型ばかりだ。
『ルノー、いけたかー?』
頭に響いて聴こえてきた呑気な声に、ルノはため息をつく。
「終わった」
『さよか、アイリちゃんバッチリやったな。そこ右や、近いで』
「……」
ルノはまだ泣いている少女の方を振り返ると、少し屈んで視線を合わせる。
「一緒に行こう」
「ぷえぇ」
少女はまだ泣き止まないようだったが、手を引かれると大人しくルノについて来た。
ルノと一緒にいれば安全だ。暗い道の中で少しだけ、少しだけ勇気を出す。
おぉーん、おぉーん!
ずっと聴こえてくる、鳴き声。足を動かすにつれ、どんどん近くなってくる。寂しい、悲しい、そう叫んでいるようだ。
次の右の角を、二人揃って曲がる。
そこはこじんまりとはしていたが、僅かに膨らんだ空間になっていた。恐らく、小さな塔の中だろう。
「……!!」
真上の小さな小窓から射し込む光に、二人は照らされる。そして、目に入った存在も。
「ウオォーン、ウオォーン!!」
「……だぁれ?」
少女は、恐る恐る話しかけた。
そこには、寂しく吠える一匹のどこぞの犬。不気味な声の主。
そして、その傍らですやすやと眠る可愛らしい赤ん坊がいた。
毛布にくるまれ、怪我をした様子も無い。微かだが、自然な寝息を立てている。
「……間に合った」
どうやら、この犬に呼ばれたらしい。
三角耳の小さな犬は、見慣れない顔にキョトンとする。だが、すぐに二人に駆け寄り、擦り寄って来たのだった。




