第190話 魚
【シュシリ通り 南門】
【テイクン 南市場】
ゴロゴロと石畳の通りを転がる、動く荷台の上。積み上がった分厚い布の生地の中に、人形はひっそりと隠れていた。
動かない身体のまま、辺りの様子を伺う。
目と鼻の先を通り過ぎる、鮮やかな果物。スカートに届きそうな程長くぶら下がった、ビカビカした干物。
風に煽られてぴしゃりと当たり、人形は内心で顔をしかめた。
「あれ、もう入ったかい?」
「いやぁ、今日はダメだね。さっぱりだわ」
「最近、海が荒れてるからなぁ」
遠くからかすかに聴こえてくる、人々の会話。
──やはり、ここはいい。
動けない、匂いも感じられないのがもどかしい。部屋の中にこもっていては、退屈するばかりだ。
下僕そのいちと、よくここを訪れた。だが下僕は生意気にも、鞄にこの人形を押し込め、人の目から存在を隠したのだ。誰だと思っているんだ。
この目できちんと見る事が出来たのは、なんと久しぶりか。
それにしても、ここも随分と様変わりしたものだ。
「おや、これは何だ?」
折角いい気分に浸っていたというのに、動けない体をむんずと掴まれる。
急に高く持ち上げられ、人形はブラブラとぶら下がった。釣り上げられた魚は、このような気分になるのかもしれない。
髭を生やした男がギョロッとした目で、こちらを凝視していた。
「こんな人形、あったかぁ?」
……おい、やめろ、近い近い近い。
髭が当たるじゃないか、やめろ。
いっそ動いてやろうか、と思い悩む。動いても良いのだが、ややこしいことになりそうだ。
だから、さっさとこの人形から離れろ。
「もしかして、ジュラばあさんとこの娘っ子のか?」
誰だそれは!!
知るものか、どこの娘の話だ!!
「しょうがないなぁ、返さないと」
必要ない!!
心外だ。心の中で必死に叫ぶのだが、目の前のこの男には当然届かない。
人形は虚しく、毛むくじゃらの男の手に収まった。男の太い指が食い込んでくるのが、腹立たしい。
男は片手で、力強くカートを押していく。
すると、通りすがりの筋肉質な男が話しかけてきた。毛むくじゃらの男に向かって。
「おい、どうしたんだい? その人形」
「ばあさんとこから預かった、これに紛れてたんだよ。あそこ、ちっちゃいのいるだろ?」
「ああ、なんて言ったかな、名前」
「忘れちまったよ。とにかく、返してやろうと思ってな」
何やら、憶測でゴニョゴニョ話している。離れたのか、会話が遠くなってしまった。
「こんにちは」
その時、後ろからコツコツとヒールの音が響く。
柔らかい風がフワッと吹き、分厚いこの体を撫でた。
会話をしていた男二人は、現れたその人物に、パァッと分かりやすく頰を赤く染める。
「おお、エリーナちゃんじゃないか!」
「団長様のお出ましか」
現れた女は、ファサッと長い髪を風になびかせた。
大人の雰囲気がある。市場を訪れるには、浮いて見えるパリッとしたスーツ姿。
「タミのじいさんには、もう会えたのか?」
「ええ。そういえばどうですの、お母様の体調は」
「いやぁ、エリーナちゃんに聞かれるなんて照れちゃうぜ」
──団長。
その単語に、人形はさりげなく女に体を向けた。大丈夫だ、気づかれてない。
「食って寝たらすっかりよくなったよ、単純だからな。魚が少ないって、文句ばかり言うもんさ」
「まぁ。ウフフ」
上品に、口に手を当てて微笑む。仕草がなんとも色っぽい。
……そうか、彼女が。彼女が剣の団、とやらの団長。
下僕そのにの、上に立つ者か。一応。
「海が荒れてばかりなんだよなぁ、なかなか漁に出れないんだ。魚がすくねーや」
「まさか、また見えざる者でも出たかい?」
「いぇ、今日はただの巡回で──あら?」
団長は、毛むくじゃらの男に持ち上げられたままの人形に、目ざとく目を止めた。
不本意ながら、視線が合う。
エリーナは、人形を見つめるとキョトンと首を傾げた。
「どうしたんですの、その可愛らしい人形さんは」