第189話 下僕
【セントバーミルダ通り 269-12】
【アパートメント アリビオ】
その日、人形は大いに不満を募らせていた。
「アイリ〜」
下僕そのいちは、奥の部屋で寝転がる下僕そのにに、しきりに話しかけている。人形を無視して。
やっと下僕が帰って来たというのに、そろそろ手入れの時間だというのに、下僕二人揃って動こうとしない。
──まだなのか、早くしないか。
櫛が髪を通る感覚が好きなのだ、さっさとしないか。
陽射しが熱を徐々に帯びてくる季節。この分厚いビラビラしたドレスも、とっとと薄手に替えないものか。
いや、替えろ。
「……」
「アイリ〜。そろそろ晩ごはんにしないか? 今日は、オムニ貝のクリームスープだぞ」
さりげなくカタカタと揺らし、主張してみるが、下僕達には聴こえていないらしい。
いくら話しかけても反応しない下僕そのにに、下僕そのいちは心配そうに近づいた。
「何かあったのか?」
「ごめん、考え中」
どうやら、悩み事でもあるようだ。しかし、人形にとっては正直どうでもいい。
悩み事、そんな言葉など人形とは無縁なものだ。
いや、無縁ではないが失くしてしまった。この世に長く居座り過ぎたかもしれない、長生きにも困りものだ。
「話してくれないのか?」
先程より柔らかい声色で下僕そのいちが話しかけると、下僕そのにはゴロリとベッドを転がる。
「……バートさんがね、パレスに来たの」
「バート?」
まださりげなく体を揺らしていた人形は、その言葉にピタッと動きを止めた。
バート。
バート。
名前の後ろがトで終わる、ラナマンの倅じゃないのか。トかドで終わるのは、ラナマンにありがちな名前だ。
「バートって、あのラナマンの代表か?」
「うん」
──やはり、ラナマンの倅。
人形に聞き覚えは無い。だが、律儀にもあの名前の法則を続けていたとは。
どこぞの若造かは知らぬが、クレエールの娘と接触するなど、無礼であろう。
「それで?」
「……」
下僕そのいちが先を促すが、下僕そのにはなかなか口を開こうとしない。
ベッドに転がったまま、ぼおっと手のひらを見つめるだけだ。
「バートに何か言われたの?」
どこぞの倅が妹を傷付けるような事を言ったのか、と思ったらしく、放った言葉にやや棘がある。
だが、下僕そのにはプルプルと首を横に振った。
「そうじゃないよ、教えてもらったんだ」
「教え……何を?」
普段はお喋りなのに、妙に歯切れが悪い。
少し口を開いたかと思うと、再び黙り込んでしまった。
一体、何を教わったのか。
「……とにかく食べよう。お腹が空いてちゃ、気が滅入ってしまう。いい考えだって浮かばないさ」
「……」
下僕そのにの、動く音がする。ようやくテーブルの上から、かちゃかちゃと食器の音が鳴る。
この位置じゃ、人形からは並んだ食事が見えないのが歯痒い。椅子の背が邪魔になっている。
たまには、この目にいっぱいの食べ物を見てみたいものだ。
動けなくなったこの人形の願いなど、その程度のもの。
下僕そのいちが下僕そのにに、気を紛らわせようとしてか話しかけるが、気が乗らない様子。
このような下僕そのには、初めて見るかもしれない。
……おい、待て。
結局、手入れはどうした。すっかり忘れ去っているじゃないか、誰だと思っているんだ。
カタカタカタ。
また、さりげなく身体を揺らす。だが、やはり気が付かない。二人揃って、人形を放ったらかしにするつもりか。
──もういい、役に立たない下僕達よ。
「あれ?」
下僕そのには、ようやく人形がいる筈の戸棚に目を向けた。
いつも人形が鎮座している、お気に入りの場所。
「お兄ちゃん、人形様は?」
「え?」
そこにはもう、人形の姿は無かった。
「あ、忘れてた」