第174話 感触
【セントバーミルダ通り 269-12】
【アパートメント アリビオ】
「ひゃあ!!!」
爽やかな朝。
行ってきます、と元気に勢いよくドアを開けたアイリ。いきなり視界に入ってきた隣人に、驚いて飛び上がった。
「ル、ルノさん!?」
「……」
目の前で、黙って仁王立ちしているルノ。
扉の前でアイリを待ち構えていたらしく、真っ直ぐアイリを見つめていた。
その顔はどこかぎこちなく、沈んでいる表情にも見える。ギュッと口を結んだ。
「ルノさん、もう平気なんですか?」
昨日のセロマとの一件。ルノは、オーガストの部屋に担ぎ込まれた。
リュートを起こして異常を起こし、豹変した後。アイリの前で、ルノはまたもフラッと倒れてしまったのだ。
カリン一人にかつがれ、どこかに連行されると、結局そのまま顔を見せなかった。その後、どうなったのか。
──ああ、いつものルノさんだ。
あの部屋でのルノは子供のようで、まるで別人だったが、今はすっかり元のルノに戻っているようだ。
まだ万全ではないだろう。あれだけの大きな事件の後だ、今日はパレスに来ないと思ったのだが。
「……」
「ルノさん?」
心配そうに声をかけるアイリに、ルノは更に表情を暗くした。美しい瞳に、はっきりと影がさす。
「その」
「え?」
「……ごめん」
ようやく絞り出した言葉に、アイリは少し目を見開く。
当然、昨日のセロマとの事件の事だろう。エリーナから要請を受けたからではあるが、結果として、アイリ達も巻き込まれる事になった。
特にアイリは、ルノとセロマの因縁すら知らなかったというのに。
それを察したアイリは、ルノに精一杯の笑顔を返す。
「いぇ、みんな大丈夫だったでしょ。だから──」
「あ、えっと」
「え?」
「それだけじゃなくて、その」
他にもあるのか。
何か言い淀む様子のルノに、アイリは困惑するも、目をパチパチさせながら待つ。
そんなアイリに、ルノはそろそろと目線を合わせた。気まずそうに。
はっきりと見つめながら、ようやく口を開く。
「パレスに帰った後で、俺……何かした?」
帰った後。
帰った後。
「……!!」
その言葉に、昨日のあの感触がさぁっと蘇ってきた。素早く、鮮明に。
「ハト」
子供のように幼くなり、上機嫌で晴れやかだったルノの声。
目の前でアイリを見つめる、いつもとは違う青緑色をした、あの穏やかな優しい瞳。頬に触れた、あの手のひらの冷たい感触。
全てを思い出し、アイリの頬がボンッと火照ったように赤くなり、熱を帯びていく。
心なしか、動悸もおかしい。奇妙に心臓がどくん、どくん、と高鳴る。
そんなアイリの様子に、今度はルノがギョッとする。
「い」
思わず、擬音を漏らすルノ。目の前で分かりやすく、真っ赤に染まる彼女の頰。
「いや、いや、何もありませんでしたよ!! なーんにも!!」
アイリは一生懸命に平静を装い、ブンブンとわざとらしく手を振る。
「なーんにも!」
「でも」
「いえ、ほんとーに! 大丈夫です、アハハ、大丈夫です!」
声が少しうわずっていると気付いたが、気にしない。
頰の赤みを誤魔化すように、パンパン、と頬を叩く。じんじんと頰が傷んだ。
「さぁ、行きますよー!!」
空元気で無理やり声を張り上げ、ルノより前に歩きだす。
「ほら、行きましょー!!」
「……」
──やはり、何かやってしまったらしい。
ルノは自分自身に深く深くため息をつくと、アイリの後を追って歩きだした。