第173話 戸棚
【テイクン クスル地方】
【とある古い邸宅】
時刻は、誰も目を覚さない筈の深夜。
辺りが暗闇に包まれる中、灯りがぼおっと廊下を照らす。
月が丸い姿で昇り、空に輝いていた。こぼれた僅かな光だけが、おしとやかに窓から射す。どこからか虫が鳴いていたのだが、その存在がこちらに届くことはない。
増築に増築を重ねた、まるで迷路のような屋敷。寄木細工を敷き詰めた床。灯りに照らされた床に、動く影が差す。
「びえええええ!!!」
狭く暗い廊下に響き渡る、まだ小さな赤ん坊の泣き声。なかなか泣き止まない赤ん坊に、赤ん坊を抱き抱えるその女性は、途方にくれていた。
「びえええええ!!!」
「はいはい、ニアラお嬢様。どうか、お気を静めてくださいませ。ほぉら、今日は月がこんなに綺麗ですのよ」
「びぃやあああああ!!!!」
背中をトントンと軽く叩き宥めても、赤ん坊は一向に泣き止まない。もう遅い時刻だというのに、赤ん坊はなかなか寝付かなかった。
今日は、一段と機嫌が悪い。
女性はどうしたものか、と困惑しながら、更に廊下の奥に進んだ。
「びぃやああああああ!!!」
「お、お嬢様」
気晴らしにと部屋に外に出てみたが、失敗だったかもしれない。廊下の灯りで、余計に目を覚ましてしまったかも。
ずっと元気に泣き叫んでいた赤ん坊だったが、その泣き声が突如ピタリと止まった。
「……!!」
「……お嬢様?」
黙り込んでしまう、赤ん坊。あまりに突然だった為に、女性は気になり赤ん坊の顔を覗き込む。
──泣き止んだだけかしら?
赤ん坊はどこか驚いた表情、いやむしろ恐怖に満ちた表情を浮かべていた。
顔を引きつらせている。
「どうなさいました?」
赤ん坊は声に気付き、ひくっと僅かに身じろぎした。視線は、ある方向にはっきりと向けられている。
誰かいるのか。
「あそこに何かあるのですか、お嬢様」
女性は気になり、その方向に足を踏みだす。
赤ん坊はやはり怖いのか、女性の服をギュッと掴み離さない。何も分からない幼子が、本気で怖がっている。
──もしや、見えざる者か。いやまさか、こんな田舎に。
女性は一瞬そう考え、足を止めた。だがそれが事実なら尚更、主人に伝えなければならない。
主人は、見えざる者に精通している方なのだから。
ごくり。
女性は唾を飲み込んで勇気を出し、もう一度歩き出した。廊下がギシギシと鳴る。
そして、廊下の突き当たりに辿り着く。
だがそのような気配は無く、ほっと胸を撫で下ろす。お嬢様は、どんな存在の気配を感じとったのだろう。
「ニアラ様、何もなさそうですよ?」
そう赤ん坊に問いかけるが、赤ん坊は恐怖を顔に貼り付けて、頬を強張らせたままだ。
やはり、何かあるのだろうか。
「ん……?」
カタカタカタカタ。
突き当たりには、古い戸棚があった。鳥の模様の透かし彫りが施された、主人のお気に入り。
そこから、小さくも奇妙な物音が聞こえてくる。存在を知らせる、何かの動く音。
「何の音かしら?」
何か、動物でも潜んでいるのか。女性は身を屈め、戸棚の中を覗き込む。
グラス、オーナメント、オルゴール、どこかの石。主人が自慢する、ありとあらゆる古い貯蔵品が飾られている。
そろそろ整理して欲しい、と奥様がぼやいていた。
首をかしげ、戸棚にそっと近付く。
カタカタカタカタ。
「……ひっ!!」
カタカタカタカタカタカタ。
「……ひぃいいいい!!!」
戸棚から聴こえてきた、その音。
「ひえええええ!!!」
音の正体に気付き、女性は赤ん坊を抱えたまま、必死の形相で廊下を駆けて行くのだった。
その存在は、確かにそこにあったのだ。