第128話 波
【セントバーミルダ通り 269-12】
【アパートメント アリビオ】
「あ」
「……」
玄関の扉を開けて一瞬。待ち構えていたかのように正面に立っていた隣人に、アイリは目を丸くした。
どうやら、アイリが出てくるのを扉の前でじっと待っていたらしい。
「ルノさん! おはようございます、どうしたんですか?」
どうした、と聞かれたルノは困ったような、もどかしいような表情を浮かべている。
「行くよ」
「え?」
「遅刻する」
そう告げると、ルノはおもむろにクルッと背を向けてスタスタと歩きだす。
アイリはポカン、とその背中を見つめた。
「……」
戸惑ってなかなか足を踏み出さないアイリに、ルノは痺れを切らしたように振り返った。目で早く来い、と訴える。
今日はついて来てはダメ、とは言わないようだ。
……そっか、もう隠さなくていいんだ。
気が付いたアイリはパァッと顔を弾けさせ、足を踏み出すとスキップ混じりでルノに駆け寄る。
「私、ラサ通りに行ってみたいんです。綺麗なお店があるって」
「ダメ」
「何で!?」
「……まだ早いからダメ」
そんな二人のやりとりに気がついたブライアンが、ひょこっと玄関から二人の様子を眺めていた。
人形も一緒だ。その腕に抱えられ、ジッと大人しくしている。
「へぇ」
──無愛想な奴だと思ってたけどな。
先を行くルノの足の速さに、アイリは足を懸命に動かしてついて行く。
天気は晴れ。
アイリにはルノが急いでいるように見えて、首をかしげる。急がなければ間に合わないような、差し迫った時間ではないが。
「あの、ルノさん──」
気になって話しかけようとした、その時。
「あ、いたいた! アイリちゃんだ!」
「きゃあああ!!」
「あそこ、あそこ!」
突如聞こえてきた沢山の黄色い声に、アイリとルノはビクッと固まった。
「え」
「アイリだああ!!」
目を向けると大勢の観客、いや人々が大挙してこちらに押し寄せて来る。人の波だ。
「アイリちゃんだ!」
「ほら、あの子よ!」
「やっぱりそうだ!」
「アイリちゃ~ん!! こっち向いて~!!」
大勢の観客の押し寄せる迫力に、アイリは呆然と立ち尽くす。
──な、なに!?
この人達、どうしたの!? 私の名前を呼んでる!!
ルノは狼狽えるアイリの手をガッと強く掴むと、観客の方に向き直る。アイリをさりげなく背に隠して。
アイリに夢中になり浮かれていた人々は、ようやくそばにいるルノに気が付いた。
「うわっ」
「ルノ君だ」
「何でルノが……?」
まだ私服のままなのに、何故この二人が一緒にいるのか。
戸惑いざわつき始める人々の前で、ルノはアイリの手をとったまま無言でお辞儀した。
スローモーションのように、ゆっくりと、深々と丁寧に。
「おお……」
人々は、ルノの冷たくも優雅な雰囲気に押されて慄く。人の波が、さぁっと水が流れるように静まっていく。
この人……。
アイリはルノが醸し出す冷たさに、ただただ目を見張った。
それは観客達も同じ。その隙をついてか、ルノはアイリの腕を握っていた力を強める。
「行くよ」
──今がチャンス。
一気にその場から立ち去ろうと、ルノは素早く足を動かす。アイリも足がもつれそうになりながらも、必死にルノについていく。
だが、人々がハッと我に返るのは早かった。熱を取り戻すと、必死にアイリを追いかけてくる。
「あ、ちょっと、待って~!!」
「アイリちゃ~ん!!」
「こっち向いて〜〜!!」
「アイリちゃーーん!!」
一人、また一人。溢れだす人影。
合流するようにどんどん増えていく人々の波に、アイリはルノに手を引かれながら口をあんぐりと開けた。
「ええええぇぇ!!」