36 因縁のはじまり(5)
「レオン、いったいどうしたの」
翌朝目覚めたナタリーは、レオンハルトのまぶたが腫れ上がっているのを見て、仰天した。
寝ぼけまなこのレオンハルトは、しばらくぼんやりとナタリーを見つめたが、はっと意識が戻ると、ナタリーに背を向け布団の中へとうずくまった。
「どうもしないよ」
「うそ。目が充血してる。むくみもひどいわよ」
布団の中からくぐもった声で否定するレオンハルトを、ナタリーは信じなかった。
「君が寝たあと、伯父上と飲み交わしたんだ。少し飲みすぎた。そのせいだろ」
もぞもぞと身じろぎするも、レオンハルトは布団から顔を出さない。
「ヴィエルジュ卿と? あんなに苦手としていたのに?」
レオンハルトのヴィエルジュ嫌いは、筋金入りだった。
なんでも昔、彼の崇拝する兄ジークフリートを伯父ヴィエルジュに侮辱されたことがあったらしい。
王都までの凱旋途中、今回の宿営地が伯父の差配した宿だと知るなり、彼は顔をゆがめ、露骨な嫌悪を示した。
もちろん、レオンハルトがナタリー以外のひとびとの前で、ヴィエルジュを厭う素振りは見せなかった。
勝者として意気揚々と、歓待の祝宴に乗り込み、勝利の美酒に酔う兵士らに水を差すものではなかったし、なにより宴では大家リシュリューの代表として立つヴィエルジュに、恥をかかせてはならない。
甥レオンハルトと伯父ヴィエルジュという、単純な親族間の好き嫌いではなく、リシュリュー家を軽んじることになる。
兵を率いる指揮官として。
フランクベルト家の王子として。
レオンハルトは、私の立場より公の立場を表明せねばならない。
そんなレオンハルトの、真心のこもっていない仮面の笑顔が、ナタリーは嫌いだった。
ひどい嘘つきだし、誠実さのかけらもない。
なにごとも率直にふるまうべきだと憤りすら感じた。
レオンハルトが本来、腹芸を苦手にしていて、そのようにふるまうことで胃を痛めていると知れば、なおのこと。
それなのに。
「それだから酒ばかりが進んだんだ。それに、腹を割って話してみれば、そう悪い人ではなかった」
レオンハルトは信じられないようなことを言った。
「なによそれ。昨日までのレオンとは別人みたいだわ」
いっこうに顔を見せないレオンハルトの、その強情っぷりに苛立ったナタリーは、彼の肩をつかんだ。
「こっちを見て言いなさいよ」
「しつこいな!」
二人のあいだで破裂音が生じた。軽く、乾いた音だった。
振り返ったレオンハルトの前で、ナタリーは張られた頬をおさえ、大きく目を見開いていた。
「ナタリー! だいじょうぶか?」
レオンハルトはあわてた。
ナタリーの手を振り払った勢いのままに、レオンハルトの手がナタリーの頬をぶってしまった。
苛立ちのために、その威力は理性でおさえつけられていなかった。
「僕はなんてことを」
レオンハルトはおそるおそる、ナタリーの頬に触れた。
「たしかに」
ナタリーはにやりと笑った。
「今のは、『優しいだけの王子様』らしくはなかったわね」
ナタリーがくちびるを動かすと、口の端から血が流れた。
「血が――」
レオンハルトはナタリーのくちびるに指をはわせた。
青くはない血がぬぐわれた。
ナタリーはレオンハルトの指先を見た。
「平気よ。これくらい」
レオンハルトは打ちのめされているようだった。
すくなくとも、ナタリーに比べれば、よっぽど。
「それで、昨晩はなにがあったの」
ナタリーはレオンハルトから目をそらさずに、たずねた。
「おしえて」
レオンハルトは手をおろし、うつむいた。
昨晩のできことが、彼の中でよみがえる。
杯を重ねるにつれて、伯父ヴィエルジュの父王ヨーハンへの嫌悪は、より忌憚がなくなっていった。
伯父は言った。
『ヨーハンが正当なる道筋を経て戴冠したのならば、私とて彼を王として受け入れた。
もちろんそうです。建国王の血脈を継ぐ王子だったのですから。
だがヨーハンはだめだ。
王であってはならない。
血脈の正統性があろうと、王としての正当性がない。
高潔な親愛王は、あまねく愛されていました。
親愛王を疎むことなど、この国に生きる人間であれば、できるはずがないほどに。
事実、正義のひとつも心に抱かぬ蛇のアンリとて、親愛王を疎むことはなかったはずだ。
そうでありながら、ヨーハンはどうです。
よりにもよって、ヨーハンは親愛王の息子。息子なのですよ。
ヨーハンの本性は魔物だ。
父殺し。
それも先代国王アルブレヒト陛下を己が私欲のために、身勝手な情欲のためだけに手にかけたのだ。
おそろしい。おそろしい罪だ。
アルブレヒト親愛王陛下ならびに、建国の七忠諸侯は、我が父リシュリュー侯爵シャルルにとって、かけがえのない血盟の友であったのだ。
先にも申し上げましたが、何度だって繰り返します。
なぜならヨーハンとアンリは、父シャルルを除いた建国の七忠、すべての先代諸侯をも手にかけたのですから。
親愛王は親友を道連れに望まなかったことでしょう!
ちょうどその日、王と上級顧問による小評議会が開かれていたのです。
父はトリトンとエノシガイオス公国の使者の接待が控えていたため、閉会後すぐに帰路につきました。
そして父シャルルは聞かされたのです。
彼の愛する友が皆、一夜にして旅立ってしまったことを。
死因は粟粒熱であるとあざむかれました。
国でもっとも優れた医師の、先代オルレアン侯ですら、手の施しようがなかったと。
看病につとめた彼までもが罹患し、夜明け前に息を引き取ったと。
愛娘マリーの幼い恋心が叶うことを望んでいたのと同じくらい、フランクベルト王国とエノシガイオス公国との講和を望み、仲立ちに奔走した父シャルルの願いは、絶たれました』
伯父ヴィエルジュの糾弾は、ついに甥レオンハルトにまで向けられた。
父殺しの王ヨーハンの息子へと。
『レオンハルト殿、貴方はかつて私に『愛の何を知っているの』と問いましたね。
愛とは何か。実に深淵なる問いです』
ヴィエルジュはかつてそうしたように、顎をしゃくり、考え込むような素振りを見せた。
『我が愛する妹マリーは、王妃の不貞という許されざる大罪を犯しました。彼女がリシュリュー家の女として、真実愛する男をトリトンただ一人と心に定めたためです。
一方、夫ヨーハンは愛の名のもとに、彼の父親と、その忠臣の命を奪い、王となりました』
レオンハルトは昨晩の悪夢から抜け出すと、顔をあげてナタリーを見た。
ナタリーは昨晩と変わらず、肌着も身に着けず裸のままで、レオンハルトがなにか口をきくのを辛抱強く待っていた。
「愛ってなんだろう」
レオンハルトはすがるような様子でたずねた。
「ナタリー、愛ってなんだ?」
ナタリーはとまどい、眉をひそめた。
レオンハルトの面持ちは切実で、彼女をごまかして煙に巻こうという意図ではないように見えた。
ナタリーは「そうね。なにかしらね」と答えた。
そして愛しい恋人をかきいだき、彼の情けない顔を何者からか隠すように、彼女の成長途中の胸元へと引き寄せた。
◇
「ああ……。お伝えし忘れてしまった」
ヴィエルジュは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「レオンハルト殿の誕生時、その姿は獅子そのものであったこと。そして建国王が獅子王と呼ばれる、その所以を」
「あますところなく、すべてお伝えするつもりだったのが、私としたことが」
ヴィエルジュはテーブル上にある、すっかり空になったデキャンタを見ては、首をかしげた。
「昨晩は酔っていたのだろうか。あの程度のワインで」
甥のいない部屋を、ヴィエルジュはゆっくりと見渡した。
「しかしまあ、些末なことでしょう。彼が先に知ろうが知るまいが。未来は、なるべくしてなるのですから」




