33 因縁のはじまり(2)
「僕は――」
レオンハルトは切り出してすぐにつまずいた。
間を埋めるようにワインを口に含む。
ヴィエルジュもまたワインを手にとった。
甥へと長く語り手を勤めた彼は、ワインがのどをうるおす滑らかな心地に、ひと息ついた。
「僕は本当に勉強不足でした。我が国とエノシガイオス公国との対立は、異なる神を信仰するがゆえだとばかり……」
レオンハルトは吐露した。
『馬を駆り、剣を佩く少年の日々に別れを。おまえも学べ。王となるべく』
ある日のジークフリートが、レオンハルトに言った。
馬や剣だけではなく、政治を、法を、哲学を、倫理を、歴史を、言語を、慣習を、商いを、民を、祈りを。
ひとの営みと、世が流れるさま。その理屈を。
だが学問に励むよう求められた弟レオンハルトは、兄ジークフリートの忠言に従わなかった。
偉大なる兄が王となるはずであることを理由に、弟は己の性分に合う道にのみ精通することを選んだ。
それこそが兄の役に立つことで、己の天分であると信じた。
兄が采配する政治のもと、使い勝手のいい駒であることを弟は望んだ。
たとえば、俊英な兄であってさえ、外交上の衝突がもはや避けられないとき。
そのときには、弟が武力でもって兄のために秩序を維持する。
たとえば、進出の気性に富んだ兄が、望む道を切り開かんとするとき。
そのときには、動きよく、確実な成果をもたらし、己の身のほどをわきまえ、異を唱えない。
みずからの政治的な思想や、既存の旧き観念は、兄にとって邪魔になるに違いないと。
それは確かに、兄ジークフリートへと捧げる、うそいつわりない、弟レオンハルトの忠誠心だった。
だが、学問を避けるための逃げ口上でもあったのだ。
テーブルの上でレオンハルトは両手を組み合わせた。
彼は自身の合わさったこぶしを睨めつけた。
よく陽に焼け、いくつもの傷を負う肌の上で、燭台のゆらめく炎がうす暗い影となり、レオンハルトをあざ笑うように踊っていた。
「異なる神への信仰心が、互いの無理解と不寛容、そこから嫌悪に拒絶、否定が引き起こされる」
ヴィエルジュは甥の示唆した現象、宗教対立と戦争について補足した。
「もちろんです。レオンハルト殿のお考えは正しい。最終的に、直截的な引き金を引いたのは、宗教です」
無知な甥へと向ける伯父のまなざしは、温かい。
彼ら一族が治めるリシュリュー侯爵領の海辺と同様に、穏やかで凪いでいる。
勉強嫌いな甥のため、根気強い臨時教師として、伯父は優しく問答を続けた。
「しかしリシュリュー家門は、国教徒であると同時に、エノシガイオス家と同じ神をいまだに信仰している。ということを、レオンハルト殿はご存じでしょうか」
「それは真実ですか?」
レオンハルトは驚愕の表情を浮かべ、勢いよく顔を上げた。
「ええ、もちろん。この期に及んで、貴方をあざむくことはしませんよ」
ヴィエルジュはおどけた様子でうなずいた。
「建国王は寛大だったのです。彼が凡庸な君主ではなく、偉大なる王と称えられるいわれのひとつです」
「たしかに、初代王がいかにすばらしい人物であったかは、僕も幾度となく教えられてきました。その所業や功績は、伝説の扱いですから」
レオンハルトの口ぶりは、自嘲で苦々しい。
「僕の不勉強から、そのほとんどが誇張された、こども向けの伝説、おとぎ話の類だと考えていましたが」
「なんと、おとぎ話ですか」
ヴィエルジュは目を丸くした。
「それはまあ。フランクベルト家直系が子孫である、レオンハルト殿であればこそ、衆人に受け入れられる冗談ですね」
そう言うと、ヴィエルジュはくすくすと笑った。
レオンハルトは決まりの悪い心地で、杯に残るワインを一気にあおった。
ヴィエルジュは笑い声をおさめ、鳩のパイ包みに手を伸ばした。
切り分けられたパイ包みは、残りわずかだった。
ヴィエルジュがつまみ上げると、ぱらぱらとこぼれ落ちるかけら以外のすべてが、皿の上からなくなった。
「さて、国教についてですが」
ヴィエルジュはナプキンで指の汚れをきれいにぬぐい、その指で、こつんとテーブルをたたいた。
甥への説法を再開する合図だ。
レオンハルトはうなずいた。
「建国王は改宗をせまらず、それまでの諸侯の信仰を認めていたのです。ですからリシュリュー家が国教以外の信仰を続けることも認められていましたし、現在でもそうです」
「そんなことが」
伯父の説く、レオンハルトの知らずにいた新たな事実に、彼は圧倒された。
一方で、レオンハルトの内に疑問がわきあがった。
黒いもやのようなそれは、彼を不安にさせた。
彼が学んだ帝王学、政治の動かし方とは、あきらかに指針が異なるように思われた。
「しかし他の神を信仰する家は、私が知る限り、リシュリュー以外では存在しません」
ヴィエルジュはすばやく断った。
「ああ」
思わずといった様子で、レオンハルトの口からため息が漏れ出た。
彼の胸にあった不快な黒いもやが晴れ、代わりに、やはり、という安堵が広がった。
かつて学んだ事柄について、誤った解釈をしていたり、あるいは記憶に間違いがあったわけではないらしい。
不勉強であったレオンハルトだが、渋々ながらも教本を読むことはあった。
学問のために割り振られた時間から逃げ出す口実を作り出せず、教師から教育を受け、教師の出す課題を議論したこともある。
王子として、最低限の題目には――彼が学んだ範囲に限ってではあるが――理解を得ているつもりでいたのだ。
「政治的な統一と宗教の統一は同時になされなければ、国の強化ははかれませんよね」
レオンハルトは、ほとんど攻撃的な口ぶりで伯父にたずねた。
自身の理解が正しいのか。
彼は伯父に確認したかった。
「そのとおりです」
ヴィエルジュは不安げな甥に、力強くうなずいてやった。
レオンハルトの顔がほころぶ。
「ではなぜ、国教とそれ以外の神との双方を信仰することが許されるのか。なにより信者にとって、その信仰心について矛盾が生じないのは、なぜか」
ヴィエルジュはそこで言葉を区切ると、レオンハルトの目を見た。
「なぜですか?」
レオンハルトはすがるような目つきで伯父に答えを乞うた。
これまでおざなりにしてきた学問。
レオンハルトにあるのは、教師からの苦言をかわすためだけの、表層だけをさらったような、乏しい知識と関心だけだ。
伯父の提示する問いへの答えは、どうあがこうと見つけられなかった。
「現在の国教については――そうですね。我が国の王が次代へ交代したとき、レオンハルト殿も詳しく知ることになるでしょうが」
そこまで言うと、ヴィエルジュは「ふむ」とあごをしゃくった。
「ジークフリート殿が発現の儀をされたのちにでも、アングレーム伯におたずねになるといい」
ヴィエルジュはレオンハルトにほほえみかけた。
「神官や、アングレーム家の縁者ではなく、アングレーム伯そのひとにお聞きなさい」
レオンハルトに見せるヴィエルジュの顔は、厳しくも慈愛を含んだ、同じ血脈を持つ伯父としての顔つきだった。
「そうすることで、貴方がこれまで避けてきた、政治について。諸侯の本来の役割や実際の機能、関係性。七忠の上級顧問としての在り方が、よくおわかりになるでしょう」
「彼らへの理解と、交流の機会を持てと。伯父上はそう言いたいのですか」
レオンハルトはたずねた。
それは少年が年長者に無意識に甘えるような、ふてくされた口ぶりだった。
伯父ヴィエルジュが甥レオンハルトへとかたむけた心配りに、甥はほだされてしまったようだった。
リシュリュー家の女扈従に先導され、この部屋へと入ったときのレオンハルトとは様子が違っていた。
レオンハルトが肉親ゆえの信頼を寄せ始めた伯父は、彼が宗家として庇護すべき一族の女に、得体の知れぬ薬を盛ったばかりであるというのに。
「レオンハルト殿。それが王子としての、貴方の義務ですよ――なんて、年長者らしく説教ぶってはみましたが」
ヴィエルジュは片目をつむってみせた。
「蝶は好き勝手、気楽に飛び回るものですからね」
ちゃめっ気のあるヴィエルジュのふるまいは、なるほど、彼はリシュリュー侯爵の息子なのだと、レオンハルトに祖父を思い起こさせた。
「我が父シャルルは害のない蝶として道化をふるまい、息子である私ヴィエルジュが鱗粉をまき散らす」
歌うようにヴィエルジュが言った。
リシュリュー家の碧い瞳。
レオンハルトと同じ色の伯父の瞳が、甥の瞳を射抜くように見つめていた。
いまや、飄々とし、人を食う言動で振り回す、いつもの伯父ではなかった。
「まず断っておくことには、父シャルルと私ヴィエルジュでは見解が異なります」
ヴィエルジュはおごそかな調子で言った。
「父はリシュリュー家当主であると同時に、建国の七忠が一。国王ヨーハンの上級顧問でもある。そうであるから、父はヨーハンに恨みはあれども、それは腹におさめ、忠誠を誓っています」
暖かなはずの部屋で、レオンハルトはぶるりと震えた。
この部屋に暖炉がないことが信じられないほどだった。
「ですが私ヴィエルジュは、リシュリュー宗家嫡男であっても、リシュリュー家当主ではなく、王の顧問でもない」
ヴィエルジュは中身の残っていない杯を掲げた。
「リシュリューの生き方が私の信念です」
ヴィエルジュのかざす杯。
その色付きガラスを透かしたむこう側に、リシュリュー家の旗印が見えた。
見栄えがするよう扉近くに飾られた、見事な壁掛けとは逆に、リシュリューの旗は部屋の奥にあった。
王家の旗はなかった。
赤地に青の一本線。
赤地は王国民の血。青い線は王侯貴族の青い血。
赤地に七本の青の斜線が、中央頂点から放射状に底辺へ向かい、均等に引かれた旗。それが王家。
リシュリュー侯爵の旗印である赤地に引かれる一本の青は、最右に引かれるヴリリエール公爵のそれより、一つ左隣に引かれている。




