32 因縁のはじまり(1)
物語はリシュリュー家が生起にさかのぼります。
エノシガイオス家とリシュリュー家は、いまとなれば言語すら異なりますが――もっとも、レオンハルト殿もご存じの通り、我が国は多民族から成ります。
よって、我らが偉大なる建国王の寛容な政治理念に従い、フランクベルト家ゆかりの言語である共通語を主とした王都を別にして、七忠や他諸侯の所領では、それぞれ、異なる言葉や文化、慣習を維持していますね。
それはさておき、今は昔、両家の当主は、かつて同じ父のもとに生まれたのです。
そしてその当時、エノシガイオス家は広い領土を治める名門家系の大貴族でした。
さきほど申し上げた通りです。
諸侯が選出する王は別におりました。
しかし王は、その官職を得ることで新たな報酬を得るということはありません。
王も他諸侯に同じく、所領からの収入に頼り、一族と土地に住まう民を統治し、生活します。
諸侯らの領土をまとめて国と呼び、その国が異国との衝突をおこしたとき。その仲介であったり、あるいは戦争となった際に、指揮をとり、先陣をきるのが王の一族です。
そのためにかかる莫大な費用は自らの財産からまかなわれ、必要であれば諸侯らに援助を願い出るという形態でした。
ほとんどの場合、王とは一族に誉れと威信を冠するための名誉職でした。
エノシガイオス家は、その新しい王を選出する投票権を有する家だった。といえば、レオンハルト殿にも、当時のエノシガイオス家が勢力のほどが想像できるでしょうか。
我が国における建国の七忠は、次期王の受諾という、異例の権威と名誉を与えられていますが、それ以上の権力と言えます。
なんといっても王の選出ですからね。
そしてそんな有力貴族であったエノシガイオス家ですが、長子相続制をとらず、兄弟で遺産を分与する諸子相続が慣例でした。
このためにエノシガイオス家は兄弟間での争いが多発し、弱体化していきます。
こういった事情は、現在のエノシガイオス家と列国との関係をごらんになれば、おわかりになるでしょう。
さて。
ここでようやく我がリシュリュー家始祖の登場です。
さきほども申し上げた通り、エノシガイオス家とリシュリュー家の当主らは、同じ父がもと、生まれました。
そしてこのときの兄弟もまた、エノシガイオス家の慣習に従い、兄弟で領土を分けて統治するようになったのです。
兄が現在のエノシガイオス公国と列国と、そこに加えて現在のリシュリュー侯爵領の一部を合わせた領土をおさめました。
弟が現在のリシュリュー侯爵領のうち、やや縮小された領土をおさめました。
そうです。
この弟が、リシュリュー家の祖。初代リシュリュー侯爵となるのです。
兄弟はそれぞれ、家の長となりました。
兄弟の仲は悪くはありませんでした。
しかし弟は近隣の諸侯と通じるうち、しだいに異文化に感化されていきました。
そしてついに弟は、希代の英雄と出会いました。
我らが偉大なる建国王、獅子王そのひとです。
弟は獅子王の、人智のおよばない圧倒的な力と、そしてまた彼の優れた知性、すなわち哲学的思考、なにより崇高な政治理念に深い感銘を受けました。
弟のほかにも、獅子王に共鳴した諸侯が、彼の参謀となりました。
これがのちの建国の七忠です。
このあたりの逸話はもはや、改めて説明する必要はないですね。
レオンハルト殿もよくよくご存じでしょう。
さてレオンハルト殿もご存じの経緯を経て、フランクベルト王国が建ち、弟は建国王に上級顧問として仕えるようになりました。
建国王は弟に褒美をあたえました。
建国王が国の貴族と認めた、すべての諸侯へ与えたように、青い血を。
それからすべての上級顧問へ与えたように、次期王の受諾という他諸侯の追随を許さない特権を。
また当然、封土も贈りました。
これは弟の以前からの所領に加え、エノシガイオス家の兄が割譲した土地を加えたものとなりました。
最後に弟が望んだのは、彼以外の七忠が言語風の、リシュリューという新たな家名でした。
というのも、弟はもちろん、当初、建国王に同じく、フランクベルト家風の名を望みました。
しかしそれは叶わなかったのです。
なぜならフランクベルト家風の名は、いまや、王族だけに許される名となったからです。
フランクベルト家は、元来が弱小豪族であったということもあり、かの家の言葉は田舎者の方言として、下に見られていました。
フランクベルト家の支配する周辺地域以外では、ほとんど話されていなかったのです。
それまでフランクベルト家が片田舎の、力のない弱小豪族であったがゆえに、さほど普及していなかった言葉。
その言葉は建国を境に、田舎の方言から、唯一無二の崇高なる言葉へと変貌を遂げたのです。
崇高なる言葉は王都での共通語となり、名づけにおいては、王族にのみ許されました。
混乱や争いを生まないためです。
建国王と七忠らが話し合いの末に定めた、数多ある法のひとつが、この家門法。
そしてその一項目、家名にまつわる条文です。
法については、私は門外漢なものですから、詳しい話をお聞きになりたければ、メロヴィング家の人間におたずねください。
レオンハルト殿は出陣中でしたから、ご存じでないかもしれませんが。先日、かの家の公子クロヴィスが留学先から戻り、帰国したそうですよ。
レオンハルト殿にはクロヴィス公子の方が、メロヴィング公よりよっぽど、お年も近く、相談もしやすいことでしょう。
話を戻しましょう。
先に述べた通り、我らが偉大なる建国王には、寛容な政治理念がありました。
それは諸侯らの領土が慣習と、限定はするものの自律を認め、尊重するという姿勢にもあらわれました。
彼はフランクベルト王国が、諸侯所領のゆるやかな融合となることを願いました。
それがため、七忠や他諸侯は彼らの言語をそのまま用い続けたのです。
そこへ弟のみ――あるいは他にのぞむ者があらわれたとき、のぞむ者へとフランクベルト家風が名の使用を許せば、混乱が。極まれば争いが起こることでしょう。
そういったわけで弟は、フランクベルト家風の名を名乗ることを許されませんでした。
しかし彼は、彼の出自エノシガイオス家を誇りとして抱きながらも、新たな国の成り立ちに携わる家門として、新たな国が始祖の一人らしく、ふさわしい名を欲しました。
それがリシュリューという名。
我がリシュリュー家のはじまりです。
同時に、エノシガイオス家とフランクベルト家の因縁のはじまりでもありました。
先に申し上げた通り、兄弟の仲は悪くありませんでした。
建国で起こった戦争の後始末として、兄が弟へ、その領土を割譲することとなっても、兄は弟を恨むことはありませんでした。
彼ら兄弟には、同じ父の血脈を継ぐ、誇り高きエノシガイオスの息子である自負がありました。
しかしそんなエノシガイオス家の当主である兄のもとへ、驚愕の知らせが飛び込みます。
弟がその家名に、エノシガイオスの名を残さないばかりでなく。
リシュリューというまったく新しい、エノシガイオス家の言語形態をとらぬ名で、名乗りを上げたというのです。
そのうえさらに、彼の弟が身体に流れるエノシガイオス家の誇り高き血が、ぽっと出の田舎豪族によって、青く染められたというではありませんか。
エノシガイオス家の、同じ父のもとに生まれた兄と弟。
両者はここで、完全に異なる一族となってしまったのです。
リシュリュー家の祖が、なぜ家名をエノシガイオス=リシュリューと定めなかったのか。
彼の子孫であり、いずれ家督を継ぐであろう私、ヴィエルジュ・リシュリュー個人の意見としましては、疑問に感じています。
建国王は寛容だったそうですからね。
七忠間の協議でなにかしら、問題が生じたのかもしれません。
いずれにせよ、リシュリューからエノシガイオスであった証は消え去りました。
こうして、エノシガイオス家のフランクベルト家への憎悪は、フランクベルト王国誕生とともに産声をあげたのです。




