31 伯父と甥
女扈従が衛兵に連れられて退室すると、レオンハルトはおさえた声で伯父ヴィエルジュに問いかけた。
「追い出したところで、彼女は『耳がいい』のでは?」
ヴィエルジュは甥の問いには答えず、ほほえみを返した。
すると扉の外で何かが崩れ落ちるような物音がした。間を置かず、扉がノックされる。
「入りなさい」
ヴィエルジュが促し、衛兵が入室する。
「この者の始末はいかがなさいますか」
衛兵が問う。
彼の腕にはぐったりとした女扈従の肢体。
レオンハルトは目を見張った。
「夫のもとへ返してやりなさい」
ヴィエルジュはレオンハルトを一瞥してから、衛兵に命じた。
「今宵彼は一睡もできずに、最愛の妻が戻るのを待ちわびているのだろうから」
「かしこまりました」
衛兵はヴィエルジュの命を受け、女扈従を横抱きする格好でふたたび退室した。
レオンハルトは女の紅が残る、錫の杯を睨みつけた。
ヴィエルジュが二度目に注いだワインは、手つかずのまま、なみなみと残されている。
「さきほどのなさりようは、芝居だったのですか」
レオンハルトは錫の杯を睨んだまま、ヴィエルジュに詰問した。
「彼女の目の前でワインに毒を振りかけ見せつける以前に、最初から彼女の杯には毒が仕込まれていたのですね」
レオンハルトとヴィエルジュの杯は、美しい色付きガラスの杯だった。
女扈従の杯だけが錫の杯だった。
この差異は、身分の差を示唆していたのではなかったのだ。
「毒とは人聞きの悪い」
ヴィエルジュはおどけて言った。
「よく眠れるよう誘うための良薬ですよ」
ヴィエルジュによってもたらされた、よい眠りとは。はたして。
翌朝、女扈従が夫君の腕の中で、明るい朝日を頬に浴びながら、その碧い瞳を開く類のものであるのか。
それとも女は夫君の腕の中で深い眠りにつき、女の美しい碧い瞳が閉じられたままであるものなのか。
レオンハルトにはわからなかった。
怖気を震い、 レオンハルトは自身に与えられた杯を見た。
「身内の、リシュリューの人間に慈悲を与えるのが、宗家としての責務ですから」
ヴィエルジュは目を細め、甥レオンハルトの動揺を確認した。
杯を睨めつけることで精神を落ち着けようとするレオンハルト。
そんな甥をからかうことが楽しいのか、ヴィエルジュの顔には笑みが浮かんでいる。
とはいえ、リシュリュー家のヴィエルジュといえば、うすら笑いを浮かべ飄々とし、人を食うような言動が常であったが。
「賢明なるレオンハルト殿は、すでにお気づきでしょう」
ヴィエルジュは切り出した。
「あれの固有魔法は、ジークフリート殿の固有魔法が劣化模倣、といったものでしてね。使い勝手がいいようで、危険でもあるのですよ。使いどころを見極めなくてはなりません」
レオンハルトは敬愛する兄の名が伯父の口から出たことで、弾かれるように顔を上げた。
「さて。そのジークフリート殿ですが」
ヴィエルジュは甥の目を覗き込んだ。
「彼は今、この部屋にいらっしゃるのでしょうか」
「兄上がいるとは、どういうことです」
強張った顔でレオンハルトが問い返すも、ヴィエルジュは念押しした。
「ですから彼の固有魔法ですよ。貴方も知らないはずがないでしょう」
レオンハルトが答えられずにいると、ヴィエルジュはふむ、と顎をしゃくった。
「やはり私にはわかりませんね」
ぐるりと部屋を見渡し、ヴィエルジュは肩をすくめた。
「血を分けた兄弟であるレオンハルト殿には、なにか気がつく合図のようなものでもあるのでしょうか。どうです? いらっしゃいますか?」
そんなことはレオンハルトにだってわからない。
だが、わからないと素直に打ち明けるのは癪だった。
レオンハルトは固く口を閉ざしたまま、答えなかった。
そんな甥を眺めつつ、ヴィエルジュはのんびりとワインを飲んだ。
つぎに鳩のパイ包みへナイフを入れる。
ナイフを持つ手とは逆の、彼の優雅な三本の指が、切り分けたパイを口へと運んだ。
しかしヴィエルジュは突然、雷に打たれたようになった。
身を震わせ、目を大きく見開いている。
「レオンハルト殿! あちらに!」
ヴィエルジュは立ち上がった。
伯父の裏返った声に、レオンハルトは眉をひそめた。
伯父の肉汁にまみれた指が、扉近くにある壁掛けを示している。
レオンハルトは伯父の示唆する壁掛けへと目を向けた。
壁掛けの複雑な模様には、さまざまな色の糸が用いられていて、とても美しい。
一見して価値の高い芸術品であることがわかる。
だがそれだけだ。
「よい壁掛けですね」
レオンハルトが世辞を言うと、ヴィエルジュは首を振った。
「ありがとうございます。しかしそうではないのです」
「壁掛けがどうかしましたか?」
またもや伯父の芝居かと、レオンハルトは呆れを隠さずに言った。
「よくごらんください、ほら!」
じれったそうにヴィエルジュが促す。
レオンハルトはしかたなく、もう一度壁掛けを見た。今度はすみずみまでじっくりと凝視した。
やはりなにもない。
「見ましたが、なんですか?」
レオンハルトは苛立つというよりも、いぶかって言った。
「ああ! なぜお気づきにならないのですか――」
ヴィエルジュはもどかしい様子で、よごれた指先をナプキンでぬぐう。
伯父が何を言いたいのか、レオンハルトにはさっぱりわからなかった。
彼は呆然と伯父の奇行を眺めた。
「レオンハルト殿、ごらんなさい」
ヴィエルジュは何かを決意したような表情になった。
得体のしれぬ怪物に立ち向かうように、ヴィエルジュは慎重に壁掛けに近寄った。
「こちらですよ。壁掛けの模様に隠れていますが、たしかにいるでしょう」
とうとう壁掛けのすぐそばまで立つと、ヴィエルジュは一点を指した。
レオンハルトも立ち上がり、伯父のすぐそばまで寄った。
そこで伯父の指の先にあるものが、ようやくわかった。
「蜘蛛ですか?」
レオンハルトは落胆した。
たかが蜘蛛。
蝶を象徴とするリシュリューの人間が、蜘蛛を恐れるとは。芝居であれば喜劇として興味深いかもしれないが。なんとばかばかしい――。
「ええ、蜘蛛ですよ」
ヴィエルジュは甥の呆れ顔を気にかけるでもなく、繰り返した。
「ですから、いらっしゃるでしょう。こちらに」
「蜘蛛がですか?」
レオンハルトは伯父のくだらない問答にいらいらして言った。
「ええ。蜘蛛のジークフリート殿が」
ヴィエルジュがほほえむ。
「なんだって?」
レオンハルトはすごんだ。その目つきは、伯父を射んとするようだった。
「蜘蛛ですよ、彼は」
ヴィエルジュは嘲るような調子で言った。
伯父は芝居がかった素振りで両手を広げたので、薄い絹の肌着から彼の細い腕が透けて見えた。
「コソコソと隠れ潜んで会話を盗み聞くとは、あちこちに巣を張り巡らす、陰湿な蜘蛛のようだ」
「兄上への侮辱は、伯父の貴方でも見逃すことはできない。訂正してください。でなければ」
レオンハルトはすばやくダガーを引き抜いた。
「決闘を申し込む」
レオンハルトにダガーの切っ先をつきつけられ、ヴィエルジュは「おや」と目をしばたたかせた。
「訂正しましょう。この蜘蛛はジークフリート殿ではない」
ヴィエルジュはあっさりと訂正した。
「悪ふざけが過ぎましたね。失礼いたしました」
レオンハルトはダガーを持つ手をおろした。
「戻りましょう」
ヴィエルジュはレオンハルトに背を向け、テーブルへと歩き出した。
レオンハルトは伯父の後ろ姿を睨めつけながら、抜き身のダガーを鞘にしまった。
仁王立ちのレオンハルトをしり目に、ヴィエルジュは腰をおろした。
「おいでなさい」
のどをうるおすのにワインを含んでから、ヴィエルジュは甥レオンハルトに向かって杯を掲げた。
レオンハルトは嘆息し、足を踏み出した。
ベルトホルダーではなく、テーブルの上にダガーを置く。
杯のすぐとなりに置いたので、燭台の炎を投影させたガラスの色が鞘にうつった。
「しかしジークフリート殿の固有魔法は、高貴なるはずの王子が固有魔法とは思えない、というのが、我が妹マリーの弁でしてね」
レオンハルトが腰掛けるなり、ヴィエルジュは言った。
「マリーはことのほか、ジークフリート殿の固有魔法を厭うていましたよ」
レオンハルトが憎悪をみなぎらせ、伯父ヴィエルジュを睨んだ。
ダガーを手に立ち上がりかけたレオンハルトを、ヴィエルジュは「落ち着きなさい」となだめた。
「兄上への侮辱は許さないと言ったはずです」
「侮辱ではありません」
ヴィエルジュはきっぱりと言った。
「ひとの愛憎には理由があり、物事には順序があります。順を追って説明しましょう」
ヴィエルジュの顔から、いつものうすら笑いが消えていた。
宙に浮いたレオンハルトのしりが、椅子の上におさまった。




