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30 勝利に乾杯




 ヴィエルジュは完全に丸腰だった。

 くるぶしまである、薄手のなめらかな絹の肌着を一枚、身につけているだけだった。

 その代わりに、室内には武装した男が一人立っていた。

 彼のいかめしい様子は、壮麗な室内で異質に浮いて見えた。



「――トリトン公子とご歓談中かとばかり」

 レオンハルトは室内をぐるりと見渡して言った。


 リシュリュー家の衛兵だろうか。

 レオンハルトらに先立って、伯父ヴィエルジュの部屋へ入室を許可されていた男は、トリトンでなかった。



「ははは。トリトンは確かに幼馴染みですがね」

 ヴィエルジュは楽しげに笑った。

「しかしながら彼はいまや、まぎれもなく敵ですよ」



 疑いのまなざしを向ける甥レオンハルトに、ヴィエルジュは席につくよう勧めた。

「まぁ、まずはワインを一杯やりましょう」



 女扈従(こじゅう)がレオンハルトの椅子を引く。

 その席には、すでに空の杯が用意されていた。



「……では、ありがたく」

 レオンハルトはしかめつらで、杯を伯父ヴィエルジュに差し出した。


 ヴィエルジュはガラス容器を手に取った。

 底は広く、注ぎ口は細く長くのびている。

 そこに施された複雑なカッティングは、レオンハルトの杯と揃いの模様だ。


 ガラスの都ミルフィオリ産の高級品。

 交易で栄える港を擁し、芸術の都でもあるリシュリュー侯爵領には、最先端の技術品や最高級の芸術品が集う。


 ヴィエルジュはその芸術的なデキャンタを傾けた。

 透明な色付きガラスの中を、明るいルビー色の液体が滑り落ちる。

 そしてワインはレオンハルトの杯へ注がれた。


 レオンハルトは杯に鼻を突っ込んだ。

 いい香りだった。

 まず最初に感じられたのは、ベリー類やバラにスミレといった、優美で華やかな香り。

 それから少し遅れて、ハーブに下草、なめし革のような、力強く大地を思わせる香りが続いた。


 ヴィエルジュの言う通り、上等のワインであるらしかった。

 ワインの芳香に、これといった違和感は感じられない。


 だが。



「この者には?」

 レオンハルトは後ろに控え立つ女扈従へと振り返った。

「伯父上が彼女を遣わせたのでしょう。褒美にワインくらい飲ませてやっては?」


「ふ、ふふ。それほど警戒をされなくても、大丈夫ですよ」

 ヴィエルジュはこらえきれずに笑い出し、肩を震わせた。

「ほら、ごらんなさい」



 優雅な手つきでレオンハルトの手から杯を奪い、ヴィエルジュは注がれたワインを飲み干した。



「毒など入っていませんよ」

 ヴィエルジュのくちびるは、ワインによってつややかに濡れていた。


 レオンハルトは伯父から顔を背けた。



「しかしレオンハルト殿の言うように、この者にも貴方と同席する褒美を与えましょうか」

 笑いをおさめようととりつくろい、ヴィエリジュは女扈従に視線を向けた。

「座りなさい。レオンハルト殿のご厚意に感謝するように」


「身に余るご厚意に感謝いたします、殿下」

 女はまず、レオンハルトへと膝を折って礼をした。

「ご主人様、ご厚意にあずかります」



 ヴィエルジュが女扈従にうなずき、女はレオンハルトのとなりの席についた。

 女に提供された杯はレオンハルトやヴィエルジュの杯とは異なり、昔ながらの(すず)の杯であった。


 ヴィエルジュの手ずから甥レオンハルトの杯へと、ふたたびワインが注がれた。

 次いでヴィエルジュ自身の杯。最後に女の杯が満たされた。



「我が国のトライデント征服、この勝利に」

 ヴィエルジュが杯を高く掲げた。


「勝利に」

 レオンハルトが続き、女はほほえんだままで杯を掲げた。



「こちらはロデのワインでしょうか」

 ワインを含んだ女扈従は、ほうと感嘆のため息をもらした。


 しかしその感想は、どこか唐突だった。

 そもそもが、客人であるレオンハルトより先んじて女扈従が感想を口にするなど、礼儀にかなっていない。


 これまでのやり取りで、どちらかといえば、女がでしゃばりな性質だろうとレオンハルトは考えていた。

 だが、王族であるレオンハルトへの礼と、主人であるヴィエルジュへの面目の手前、女がしゃしゃり出るのは不自然だ。


 レオンハルトは女のふるまいに、意図的なものを感じ取った。



「そうだ。ベンテシキュメとトライデントの狭間にある、あの小国ロデのね」

 ヴィエルジュは女扈従に答えながらも、その実、甥レオンハルトへ説き聞かせるような、ゆったりとした口調だった。


 レオンハルトは次によこされる話題について想像し、身構えた。



「レオンハルト殿は、ベンテシキュメやロデ。その他列国の君主が家をご存じでしたね」

 ヴィエルジュは寛容な優しさをにじませて言った。

「それらの家が、遠い昔、エノシガイオス家から分かれたことも」



 そらきた。レオンハルトは注意深くうなずいた。



「かつてフランクベルト王国が国として建つ前。その頃より、エノシガイオス家は広い領土を治める名門家系の大貴族でした」

 ヴィエルジュは遠くを眺めるような目つきになった。


 レオンハルトは黙って伯父の話を聞いていた。

 するとヴィエルジュがはっとしたような顔つきで、甥レオンハルトへと向き直った。



「これから私の言うことに、気を悪くしないでほしいのですが」

 ヴィエルジュが断りをいれる。



「かまいません。続けてください」

 レオンハルトは伯父を促した。



「では、その通りに」

 ヴィエルジュはほほえんだ。

「一方でその頃、レオンハルト殿のフランクベルト家は、領地もろくに持たぬ田舎豪族に過ぎませんでした」


「ご主人様!」

 女扈従があわてて声を上げた。

「それはあまりに――」


「ああ、お前。まだいたのか」

 ヴィエルジュは冷たく言った。


 主人からの温度のない、凍りつくような口ぶりとまなざしに、女扈従はびくりと体を震わせた。



「褒美のワインを一杯飲んだのだから、もういいだろう。出ていきなさい」


「そんな――」

 助けを求め、女扈従はすがるようにレオンハルトを見た。



「そう。そんなにこの場に留まりたいのならば、これを飲みなさい」

 ヴィエルジュは女扈従の錫の杯に、なみなみとワインを注いだ。


 女扈従は戸惑うように主人の指示を待った。


 ヴィエルジュは、彼がはめている指輪のひとつに触れた。

 その指輪は他の指輪に比べて大づくりだった。


 石は大きく、白いまだらのある赤碧玉(せきへきぎょく)。石の表面には傷がついている。

 赤碧玉を囲む石座もまた大きい。

 そこに彫られているのは、リシュリュー侯爵領でなじみ深い、アカンサスの葉だ。

 総じて仰々しい意匠といっていいだろう。


 レオンハルトの知るヴィエルジュは、いかにもな綺羅(きら)を競うより、優美で繊細な装飾品をさりげなく身に着けることを好んだ。

 この赤碧玉の指輪は、洒落者の伯父らしくない。


 ヴィエルジュが指輪の石座にはめこまれた赤碧玉をつまむと、それは蓋になっていて、ぱかりと開いた。



「さあ、どうぞ」

 そう言うと、ヴィエルジュは注がれたワインの上で指輪を振った。


 赤碧玉の指輪から錫の杯へと、白い粉がサラサラと降り注がれた。

 晴れた日の粉雪が光を浴びて美しく舞うように、その粉もまた、ともし火の橙色を受けながら落ちていった。




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― 新着の感想 ―
ってゆか、伯父さんのワインにも毒が入っていることを疑わなければならない感じなのですね。うう、国の中枢って怖いですね。 リシュリューだけじゃなくて、フランクベルト家の話まで出てきた!(*´▽`*)
[良い点] >赤碧玉の指輪 ヴィエルジュ、ずっとつけてるんですね。 >指輪から錫の杯へと、白い粉がサラサラと ボルジアのカンタレラでしたよね。 アイデアの元になった毒。 このシーン、女扈従がど…
[良い点] >赤碧玉の指輪から錫の杯へと、白い粉がサラサラと降り注がれた。 何?これ何? 毒?それとも気持ちよくなっちゃうやつ!? [気になる点] >レオンハルト殿のフランクベルト家は、領地もろくに…
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