29 絵画の中の少年
女扈従はレオンハルトへ、うっとりとしたまなざしを注ぎ続けていた。
リシュリュー宗家嫡男ヴィエルジュが、彼の甥レオンハルトのために差配した女。
その女が明らかにしたのは、現王妃の不貞という、決して暴かれてはならない機密だ。
レオンハルトの母であり、伯父ヴィエルジュの妹でもある王妃マリー。
マリーについて、このようにレオンハルトへと披露されることは、ヴィエルジュの望む筋書きだったのだろうか。レオンハルトは疑った。
一方で女は、レオンハルトがなにか反応を返すのを辛抱強く待った。
女の明かした秘密は、レオンハルトにとって新しく知る、重大で衝撃的な話であるに違いないと思ったからだ。
レオンハルトは乾いた口の中に唾液を溜め、飲み込んだ。
引きつれるようだったのどが、いくらかうるおう。
「二心なく国に仕える臣下? 母のしたことは、明らかに裏切りだ。なぜ母は姦通罪で裁かれていない?」
レオンハルトは女扈従を責めた。
この場にいない母を責められない代わりに、レオンハルトは八つ当たりとして、まるで弱い者いじめをしているのだった。
そして女との駆け引きにおいて優位性を損ねないよう、彼は女に対し、毅然とした態度を示し続けようと努力した。
しかし彼の声は震えていた。堂々としているとは、とても言えなかった。
「それについては私の口からではなく、ヴィエルジュ閣下から殿下へ、お伝えいただくことにいたしましょう」
女扈従は慈愛を込めて、レオンハルトの手を優しく握った。
レオンハルトはうなずくほかなかった。
なすすべもなく女の手に引かれて、彼は部屋を出た。
狭い中廊下を進むと、壁掛けの照明は蝋燭ではなく、オイルランプが灯されていた。
衛兵は立たず、代わりに大理石の彫像がところどころ並べられていた。
リシュリュー家ゆかりの者を描いた肖像画もあった。
そのほとんどは湖や緑の庭園、あるいは食卓を取り囲む家族の団らんを、明るく華やかな筆で描いたものであった。
その中の一枚に、レオンハルトはそこに描かれるはずのない人物を見つけた。
まだ幼い少女マリーの肩に親しい様子で肘をつく少年。
彼の額や頬には濃い黄金の巻き毛がかかり、そのほがらかな笑顔をいっそう輝かせていた。
レオンハルトの足が止まった。
「殿下によく似ていらっしゃるでしょう」
レオンハルトの視線の先を見とがめ、女扈従は言った。
レオンハルトが振り向くと、女は優しげにほほえんだ。
つと彼の前を行き、件の絵画へと歩み寄る。
「こちらはどなただと思われますか?」
不遜にも女扈従はレオンハルトへ謎かけをした。
レオンハルトは眉をひそめた。
だが彼は思い直し、素直に答えてやることにした。
「顔立ちは異なるけれど……」
女が指差す絵画の中の少年を、レオンハルトはもう一度じっくりと眺めた。
それにしても、絵画の中で楽し気に笑う少年は、レオンハルトによく似ている。気味が悪いほどだ。
冷たい手で心臓をそっとなでられるような、ぞっとする心地だった。
レオンハルトは絵画の少年から目を離して言った。
「しかし、伯父上だろう。この少女はおそらく母なのだろうから。少年少女の距離は、彼らが従兄妹であっても近すぎるからね」
「いいえ。ヴィエルジュ閣下はこちらの絵が描かれた当時、数年の間、ベンテシキュメの宮廷にいらしたはずです」
女は軽く膝を折った。レオンハルトの言葉を否定した、その非礼を詫びるためだ。
「ベンテシキュメか」
レオンハルトは彼の国の地理を頭に思い浮かべた。
ベンテシキュメはリシュリュー侯爵領とエノシガイオス公国との狭間にある小国だ。
先日からの凱旋では、レオンハルトら一行は列国を通過してきたわけだが、当然ベンテシキュメも経由した。
フランクベルト王国とエノシガイオス公国の、どちらにつくのか。
開戦前にジークフリートらが列国へと厳しく迫ったとき。
ベンテシキュメは寸前まで曖昧模糊な態度を通そうとした国だ。
「開戦前の交渉では、うじうじとはっきりしない国だったっけね」
判断力の欠ける臆病な君主を想像しながら、レオンハルトは言った。
「明確な回答がないのならば敵国と見なす、と。ジークフリート兄上が通告してようやく、我が国につくと答えた」
「ベンテシキュメが返答に窮したのは、ベンテシキュメ家がかつて、エノシガイオス家から分かれた家だからです」
女扈従は王妃マリーの秘事に続き、エノシガイオス家にまで通暁しているようだった。
だが、それくらいならばレオンハルトも知っていた。
諸外国の歴史に興味がなく、真剣に学んでいなかったレオンハルトであっても。
とはいえ、女の身ながらこれほど詳しく歴史を学び、情勢に通じていることには、レオンハルトも素直に感嘆した。
女が政治や歴史を深く学ぶことは、上位貴族の家であってさえ、ほとんどないのだ。
彼女たちが学ぶのは、家々の厳格な序列と、見苦しくない言葉遣いや振る舞いといった礼儀作法であったり、刺繍やレース編み。
いかに美しく装い、飾り立て、慎ましく己の価値を披露し、いずれ夫となる男へ謙虚に従えるかどうかということだった。
「そうだね。あのあたりの列国はほとんど、エノシガイオス家から派生している」
レオンハルトは女扈従の教養深さを称えるつもりでほほえみかけた。
「ええ、そしてリシュリュー家もですわ」
女扈従は弾む声で言った。
レオンハルトが歴史に通じていることを喜んだのだろう。
だが彼は女がつけ加えた言葉の意味がわからなかった。
「リシュリューが?」
怪訝な様子でレオンハルトが問いかけると、女扈従は目をしばたたかせた。
「ええ。ですが、あの、リシュリューの生起については……」
王族であり、リシュリュー宗家の血脈を継ぐレオンハルトが、まさか知らないとは。
そしてそれを問うのは、あまりに不敬なのでは。
女扈従は言葉の先を続けられず、その碧い瞳は戸惑いに揺れた。
レオンハルトは女の不安を察した。
「知らない。僕はリシュリューについて不勉強だった」
レオンハルトは女の肩に手をかけた。
「教えてくれないか。リシュリュー家は辿れば、エノシガイオス家に行き着くということ?」
レオンハルトの真剣なまなざしに、女扈従は小さく息をのんだ。
こくりと女の細いのどが上下する。
女はくちびるをなめた。
そのみずみずしく、ふっくらとしたくちびるが開こうとした、そのとき。
「ええ、貴方の言う通りですよ。レオンハルト殿」
女の高い声とは違う、低く落ち着いた男の声が中回廊の奥から響いた。
レオンハルトと女扈従は同時に振り返った。
「そちらの絵画に描かれた少年は、戦場で我が国の兵を殺める前のトリトン少年」
レオンハルトと女扈従の間に割って入った、声の主は続けた。
「我が妹マリーと、無邪気に将来を誓い合っていた、害がなく、親しき幼馴染であった頃の彼ですよ」
今宵の館の主ヴィエルジュが、扉に背をもたれかける格好で立っていた。
彼の笑顔を浮かびあがらせるのは、中廊下に取りつけられたオイルランプの明かりと、扉の開いた室内からもれ出る光。
レオンハルトとその伯父ヴィエルジュ。それからヴィエルジュの差配した女扈従。
薄暗い中廊下で、今、彼らは会している。
レオンハルトらと伯父ヴィエルジュまでの距離は、レオンハルトが寝室に置いてきた長剣をまっすぐにのばしたとしても届かない。
「お待ちしていましたよ、レオンハルト殿」
ヴィエルジュは背筋をただし、室内へとレオンハルトを招くしぐさをした。
「どうぞ、おはいりください。とっておきのワインを用意しています」
レオンハルトは大きく息を吸い込んだ。




