22 枕元の語らい(2)
「王子様が国教を貶めるって、それは許されることなの?」
ナタリーがこわごわとたずねた。
「僕だけじゃないよ。王家のだれも、神には祈らない。祈っている姿を見たことがない」
むっとした口ぶりでレオンハルトは言った。
「あのジークフリート兄上でさえ、けっして信心深いとは言えない」
「ジークフリート殿下まで?」
ナタリーは驚いて上半身を起こした。
「もちろん教会に献金はしているよ。王家としても、それぞれ個人名義でも」
レオンハルトはナタリーを見上げてうなずいた。
「だけどフランクベルト家は――この国の王は、神によって王権を賜った、神意だと言い張るくせ、式典以外で個人的な礼拝に訪れる者はいない」
そこまで言うと、レオンハルトはナタリーから顔をそむけた。
レオンハルトの脳裏に浮かぶのは、真っ赤な血。
それが雨のように降り注ぐ様。
鮮血のほとばしる向こうで、長く鋭い槍に串刺しとなり、宙に浮かんだままの者がいる。
まるで針山のように幾本もの矢に射られ、うずくまり動かない者がいる。
片腕を切り落とされながらも立ち向かい、突進するままに剣でつらぬかれた者がいる。
戦斧で頭をかち割られ、半分に裂けた者がいる。
人型すら残らず、鎚鉾で打ち砕かれ肉塊になった者がいる。
腕が、足が、首が。
繋がれているべき身体のあらゆる場所がばらばらになって、地面に転がっている。
命ある人間の足が、命の消えた人間の体を踏みにじり、命を刈り取りに向かっていく。
戦場を支配するのは狂乱だった。
愛や慈悲でなく、戦意と敵意がひとびとを突き動かし、憎悪に憤怒が荒れ狂う。
「この戦いの中でも、僕は神に祈ることはなかった」
レオンハルトは吐き捨てるように言った。
フランクベルト王国の崇める神と、エノシガイオス公国の崇める神は異なる。
だが、戦場に散った彼らはみな、赤い血を流していた。
信仰があれば許されるのか?
それともこれこそが神の望みだというのか?
ならば神同士で争えばいいではないか。
どちらが本物で、どちらが偽物かなど、天上で決着をつければよい。
なぜ地上の人間を巻き込むのだ。
人間を持ち駒として操る神になど、救いを求めはしない。けっして。
「魔法も魔術も、神様からの贈り物なのに?」
レオンハルトを改心させようとでもいうのか、ナタリーは未練たらしく迫った。
レオンハルトの肩をなでるナタリーの手つきは、労りを感じさせた。
レオンハルトはナタリーに背を向けたまま、深く息を吸い込んだ。
腹の底に苛立ちを押し込める。
――ナタリーの豊富な魔力を思えば、彼女が神をありがたがるのは当然だ。
レオンハルトは自分自身に言い聞かせた。
ナタリーは神からの恵みを存分に受けている。
彼女の見解では、そういうことだ。
魔法と神の結びつきなど、ほんとうに存在するかどうかは知らないが。
レオンハルトにしてみれば、魔法も魔術も、神などという虚像をもっともらしく見せるための、分不相応な霊薬のように思う。
実際にはまったく無関係であるのに、無理やりあとづけたのだ。
だがナタリーは純朴な娘だ。
出会った頃より、そういう気質だった。
疑いなく神を信じているのだろう。
レオンハルトは、そんなナタリーの純粋さを愛しく思うのだから、彼女の純粋さのうち、信仰心についてだけ腹を立て、除外しようとするのは公平ではない。
心が狭い。
愛のあるべき姿ではない。
愛には誠実であらねば。寛容であらねば。
ナタリーへの愛、その忠誠心を思い返すことがレオンハルトの気休めになった。
「やっぱり君は天使なんじゃないかって思う」
レオンハルトは寝返りをうち、ナタリーと向き直った。
「君がこの国へともたらしてくれた勝利も、君が僕個人に注いでくれた慈愛も。まるで神の御業のような奇跡だ」
「分に過ぎるわ」
ナタリーはかすれ声で返した。
レオンハルトの言葉に、ナタリーは明らかに戸惑っていた。
冗談の軽口ではなく真剣なやり取りで、神や天使と比べられることに、畏れ多いと彼女は感じていた。レオンハルトにもわかった。
「そんなことはないよ。僕が戦場に立っていられたのは、君がいてくれたからだ」
レオンハルトはナタリーの揺れる瞳を見つめた。
「僕の天使。僕の唯一。僕の最愛。うつくしく尊い人」
レオンハルトはナタリーの手をすくいあげ、その甲にくちづけた。
「愛しているよ、ナタリー」
レオンハルトは困惑するナタリーにほほえみかけた。
表情の晴れないナタリーを胸元に抱き寄せ、もう一度「愛している」と言った。
彼の腕の中でナタリーはじっとしていた。
肌と肌の触れ合うぬくもりが、皮膚の下に血の流れることを伝えた。
それぞれの体を巡る、青い血を。
わかっているよ、ちゃんと気がついている。
レオンハルトは胸中つぶやいた。
レオンハルトがナタリーへ向ける信仰と敬愛は、ナタリーが受け止めるには重すぎる枷だった。
レオンハルトはもちろん知っていた。
彼がそうであるように、彼女もまた、それほど器の大きい人間ではないのだ。
レオンハルトはナタリーの不安を理解していた。
トライデントを制し、その晩にふたりが結ばれたこと。
ナタリーがなんと言おうと、きっかけを作ったのは彼女自身だ。
戦い直後の猛った精神を持て余しながら、恋人のテントをたずねるということが、どういう結末を迎えるのか。
ナタリーとてわからぬはずがない。
戦闘と血。
死は生のすぐそばでほほえむ隣人である。
生きる覚悟と死ぬ覚悟を胸に、大義と名誉を背に。
一歩下がることもかなわぬ崖っぷちに立っているという高揚感。
キャンベル辺境伯騎士団の荒々しい男達に揉まれて育ったナタリーなのだ。
戦いとなれば、キャンベル家の熱い血潮が激しくうねり、彼女の体は強く突き動かされることだろう。
それだからあの晩、ナタリーはレオンハルトのテントに訪れた。
ジークフリートとその婚約者ミュスカデ、彼等の後ろにそびえる大貴族メロヴィング家、それから影響の派生するだろう、残り七忠の家々への配慮だったり。
その他面倒な現実から目をそらして。
あるいはそれらが些末なことのようにしか感じられずに。
それだからあの晩、ナタリーはレオンハルトと愛し合うことができた。
――だけど今、君はすこしばかり冷静になった。
そしてナタリーにも現実が見えてきた。
急速に、明瞭に。
熱に浮かされ朦朧としていたのが、すっかり晴れた。
彼女が不安になったのは、そういうわけだ。
レオンハルトとナタリー。
ふたりの関係をどのような時期に、どのような段階を経て進めるべきなのか。
どのように振る舞うべきなのか。
政治的な意味や及ぼす影響を真剣に考えず、夢の続きを延長しているのは、レオンハルトではなくナタリーだ。
王室と関わることの煩雑さに、ナタリーはようやく気がついた。
怖じ気づき、レオンハルトに責任を押しつけようとしている。
あの晩のナタリーに、覚悟は決まっていなかった。
悪あがきをしたいのなら、いくらでもすればいい。
ナタリーを抱きしめ、彼女の髪の匂いをかぎながら、レオンハルトは仄暗い感情に支配された。
八つ当たりをしたっていい。
すべての罪をなすりつけようとするのだってかまわない。
しかしもはや、逃げられないのだ。
レオンハルトだけではなく、ナタリーも。
フランクベルト家と、そして王室を取り巻く魑魅魍魎に関わらずにはいられない。
王族と縁を繋ぐということはすなわち、魔物の巣窟に足を踏み入れるのと同義だ。




