19 恋人たちのいさかい
日が完全に落ちきる前に、一行はその晩の宿営地に辿り着いた。
おおよその兵士らは簡易テントをはり、敵将トリトン公子を除いた捕虜たちは檻の中へ。
医師であったり、その他特別な技能を有する魔術師や魔法騎士、はたまた一定基準以上の階級にある者達は宿に泊まった。
レオンハルトとナタリーの二人も、当然ながら宿へと通された。
リシュリュー侯爵が嫡男、ヴィエルジュの差配した宿だ。
「こどもができたら、どうするつもり?」
湯舟の中央に渡された板の上、両ひじをついた格好でナタリーが言った。
板の上にはリシュリュー侯爵自慢のぶどうとワインが置かれていた。
板の下からは、ちゃぷりと湯の動く音。
狭い湯舟の中、ナタリーが足を組みかえたからだ。
レオンハルトとナタリー。
若い恋人同士が板を挟んで向かい合い、同じ湯に浸かっている。
ナタリーはつんと顎をそらした。
その蒸気でほてった頬を、レオンハルトがじゅうぶんに温まった指でなぞった。
「そうなったら、すごく嬉しいよ」
もう片方の手で、レオンハルトは板の上に置かれたぶどうを一粒ちぎり取った。
かたく結ばれたナタリーのくちびるに、ぶどうを押しつける。
ナタリーが口を開き、レオンハルトは皮をつまんでみずみずしい果実を押し出した。
「そういうことを言っているんじゃないのよ」
ぶどうを飲み込み、ナタリーは言った。
ナタリーの口の端に残る果汁をぬぐい取ろうと、レオンハルトは親指をすべらせた。
くちびるから頬へと這わされるレオンハルトの手。
ナタリーは鬱陶しそうに払いのけた。
ナタリーの始めようとしているものが、恋人同士の甘い会話ではないことを知り、レオンハルトは息を吐き出した。
「婚約が婚姻に変わる。それだけだ」
レオンハルトの声に情熱は込められていなかった。
それまでナタリーに顔を近寄せ、前かがみの姿勢でいたレオンハルトだったが、ふたたび息を吐き出すと、上半身を起こした。
濡れた髪を片手でなであげる。
そのまま両腕の肘から下まで、だらりと湯舟の外に放った。
レオンハルトの視線の先には、幾重かに垂らされた、薄手の布。
蝋燭の光がちらちらと揺れ、仕切り向こうに立つ使用人の影が映りこんでいる。
戦場に入浴の世話をする女使用人は連れてきていない。
だが、レオンハルトの母王妃の兄、ヴィエルジュが気を利かせたのだ。
伯父は身元の確かな、名のある出自の女を世話係として部屋に寄越した。
レオンハルトは見知らぬ女の佇む影を睨んだ。
興の削がれたことで、他人が同室することへの意識が強まった。
「婚約が婚姻に変わる? ジークフリート殿下のご婚姻もまだなのに?」
ナタリーは追及をやめなかった。
「兄上の立太子が決まったんだ。ご成婚はすぐだよ」
レオンハルトは苛立ちを表に出さないよう、口元にほほえみを浮かべた。
「すぐっていつ? その前にあたしが妊娠してもいいの?」
「そうカリカリしないで。大丈夫。兄上もメロヴィング公爵令嬢も、お二人とも。とっくにご結婚されて、こどもがいてもおかしくないご年齢だ。だから君が不安になる必要はないよ」
レオンハルトがなだめるも、ナタリーは呆れたように息を吐いた。
「ねぇ、レオン。もっと真剣に考えてよ。ジークフリート殿下のご成婚となれば、盛大な祝典が開かれるのよ。その前に同腹の弟であるレオンが、ジークフリート殿下より先んじてこどもを作ったら」
ナタリーはそこまで言うと、ためらうように視線をそらした。
だが結局、レオンハルトの碧い瞳を見据えて続けた。
「ジークフリート殿下のご結婚に、なんらかの影がさすでしょう。それはレオンの本意じゃないでしょ?」
「なぜそんなことをいまさら」
ほほえみの仮面がレオンハルトの顔から払い落とされた。
レオンハルトの苛立ちがのぞく、鋭い目つきと声色。
加えて『いまさら』という言葉が、ナタリーに火をつけた。
「いまさらって、レオンがあたし達のこの先について、何を考えているのか、それとも何も考えていないのか、すこしもわからないから聞いているのよ」
「僕がこの先について、考えているのかどうかがわからない? それこそいまさらじゃないか」
ナタリーの糾弾は、レオンハルトの心を傷つけた。
信用されていないと感じた。
愛する人に忠誠と尊敬を捧げることのない、軽薄で性根の弱く醜い、二枚舌、詐欺師であると。
それはあの日、レオンハルトが抱いた、己自身への不信感でもあったからだ。
レオンハルトとナタリーが初めて結ばれた翌朝。
レオンハルトはやり直したいと、ひどく後悔した。
なぜなら彼は逃げたからだ。
抱えきれぬ罪の意識から。
善と悪。守護すべき対象に、正義の裁き、力を振るうべき対象の選別。
そういった容易には答えの出せない問いから。
彼の信念や良心をずたずたに切り裂き飲み込もうと、暗闇からのびるおぞましい手から。
レオンハルトは逃げ、愛する女性の胸に飛び込んだ。
彼の最愛の女性、ナタリー。
彼女の温かな愛が彼を包み込んでくれるように見え、その慈悲にすがった。
それをいまさら、他の誰でもないナタリーから咎められているように、レオンハルトには感じられた。
始まりを間違えたから、レオンハルトはナタリーへの愛を信じてもらえないのだ。
彼が忠誠を捧げ、敬い、生涯を誓い、真摯に愛そうとも、ナタリーからの疑惑は今後もついて回る。
「そんなこともわからないのなら、なぜあの晩、僕のテントに来たんだ! ナタリー、君が来たんだぞ!」
とうとうレオンハルトは声を荒らげた。
しかし、すぐさまレオンハルトは我に返った。
仕切り向こうへ、すばやく横目をやる。
使用人は身動きせず、息を詰めていた。動揺はとくに伝わってこない。
「……そう。あたしのせいだって言いたいのね」
レオンハルトが視線を戻せば、ナタリーの黒い瞳に、激しい怒りの炎が燃えていた。
「レオンにそのつもりはなかった。だけど、あたしが娼婦みたいにレオンを誘ったから。それでレオンは流されたって。そういうことなのね」
レオンハルトは投げやりな心地だった。
気の合わない伯父ヴィエルジュに、ナタリーとのやり取りすべてが筒抜けになろうと、知ったことか。
「ちがう。君のせいだなんて言っていない」
レオンハルトは湯をすくいあげ、両手で顔になすりつけた。ぼたぼたと湯が流れ落ちた。
湯は冷めてきている。
レオンハルトは顔をあげた。
ナタリーが怒りと悲しみの混じったまなざしで、彼の言葉の続きを待っていた。
「二人のことだ。君と僕の」
レオンハルトは手を伸ばし、傷や痣を負うナタリーの肩をさすった。
ナタリーはレオンハルトを睨みつけたまま、しかし身をよじることはなかった。
ナタリーが拒絶を示さなかったので、レオンハルトはナタリーの額にくちづけた。それから頬へ。そしてくちびるに。
「だからナタリー。僕が君を愛することを、愛し合うことを、急に咎め始めるのはやめてほしい」




