17 忠義と美徳の在り処
幻はクロヴィスとミュスカデにきちんと続きを見せた。
先が気になるというところで、もったいぶってとぎれるようなこともなく。
鷲は茶褐色の身体にほのかな青白い光をまとわりつかせ、つるんと美しい、平らな板ガラスのそばにとまっていた。
ガラスに映り込む自身の姿を金色の目で見つめる。
両翼と太いくちばしをそれぞれ大きく広げ、ガラスをはさんで対面する相手――もちろんそれはガラスに映る鷲自身の姿だ――を威嚇する姿は滑稽で、愛らしかった。
鷲を家紋に掲げるメロヴィング家の兄妹は幻に夢中で、伝言を運んできた愛すべき鷲を気にも留めなかったが。
◇
「我ら七忠は偉大なる獅子にこそ、忠誠を誓う」
ガスコーニュ侯爵はおごそかな口調で切り出した。
「ええ、ええ! おっしゃるとおりです!」
頬を紅潮させたエヴルー伯爵が勢い込んでうなずく。
「裏を返せば」
ガスコーニュ侯爵はきっぱりと言った。
「獅子ではない王族に誓う忠義はない」
王はくつくつと笑っていた。
ジークフリートの姿は他のひとびとと違い、ぼんやりとしか見えない。
「次代が獅子について、蛇の夢占いが根拠では納得がいかぬ。だが、偉大なる獅子への忠義が根拠であるならば、我も再考しよう」
ガスコーニュ侯爵は片方の口の端をつりあげた。
ぎらぎらと光る獣の目をエヴルー伯爵に据え置いたまま、彼はにやりと笑った。
「我らは王室の犬ではなく、誇り高き七忠。そういうことだな、豚よ」
そこでガスコーニュ侯爵はふと真顔になった。
幼馴染への親しみをこめた愛称呼びを、彼はいっときやめることにした。
「いや。同輩よ、血盟の友よ。建国の七忠が一、エヴルー伯よ」
エヴルー伯へ敬意を示し、ガスコーニュ侯爵はその呼称を改めた。
「ガスコーニュ侯……!」
エヴルー伯爵はくちびるを震わせた。
だらしのない顎肉には、一筋の涙が伝っていた。
「これしきのことで泣くな、豚」
ガスコーニュ侯爵は顔をしかめて唸った。
「ははは。エヴルー伯は昔から強き男に憧憬を抱きがちであったからな」
オルレアン侯爵の朗らかな笑い声が響いた。
「豪快なガスコーニュ侯に認められれば、それはさぞ嬉しかろう」
「ええ、ええ……! オルレアン侯のおっしゃるとおりで……!」
エヴルー伯爵は声をつまらせ頷いた。
ふところからハンカチを取り出し、頬をぬぐい、鼻をかんだ。
「そしてもちろん」
エヴルー伯爵は豚のように鼻をならした。
「幼い頃よりオルレアン侯の博識を分け与えていただいてまいりましたことに、感謝しております!」
すかさずおべっかを始めるエヴルー伯爵に、オルレアン侯爵はほほえみを返した。
エヴルー伯爵は感極まった様子であたりを見渡した。
そこで彼は眉をひそめているアングレーム伯爵に目を留めた。
「それからアングレーム伯の慈悲に救われてきたことにも! ええ、ええ。そうですとも!」
興奮で身を乗り出し、エヴルー伯爵はキイキイと耳障りな高い声でアングレーム伯爵に詰め寄った。
限界まで肉の詰められたソーセージのように太く短い指が、枯れ枝のように細い指をにぎりしめる。
アングレーム伯爵の眉間のしわはますます深く刻まれた。
「アングレーム伯、貴方は私がお嫌いでしょう。ええ、よく知っていますよ、わかっています! しかしながら貴方は、私のような誇り低き者にも、常に正直に接してくださいました」
エヴルー伯爵の言葉に、アングレーム伯爵はわずかに目を見開いた。
「もちろん嫌われたいのではありませんよ! けれど貴方が私に対して正直でいてくださるから、私は建国の七忠である誇りを失わずにいられました。そういうことなのです。これは貴方から贈られた慈悲でしょう」
アングレーム伯爵はエヴルー伯爵の熱烈な告白に、うなずいたり首を振ったりすることはなかった。だが彼は真剣に聞いた。
神官らが信徒の告解に対峙する姿勢と同じに、私情を表に出さず、エヴルー伯爵の話したいがままにさせ、受け止めようとしたのだ。
「私の美徳は慎重ですが、ご存じでしょうね? そして聡明なるアングレーム伯のことですから、こちらもまたご存じでしょう。美徳であっても悪い面なんてものは切り離せずにひっついてくる。豚舎にノミやシラミがつきものであるように、表裏一体なのです」
鼻の穴をふくらませ、エヴルー伯爵は大演説をぶる。
「はてさて。では慎重にひっつく、いやらしいノミとはなんでしょうか? そうです、臆病です! 貴方は私の臆病をからかったり、やりこめたり、あしらったりするのでなく――」
エヴルー伯爵がアングレーム伯爵へと必死に言い募る一方で、オルレアン侯爵とガスコーニュ侯爵は目を見合わせた。
二人の侯爵がこのやり取りをおもしろがっている様子に、アングレーム伯爵は気がつき、思わず眉をひそめた。
エヴルー伯爵はそれを自身への非難として受け止めた。
「――貴方の信条から貴方は私をおべんちゃらとして厭いましたね! けれど今、貴方へと贈る言葉は私のおべんちゃらではなく私の真心です。貴方の正直さは貴方の美徳ですから、私も貴方の美徳に敬意を示し、倣いました」
「正直であることは誰にとっても美徳です」
アングレーム伯爵はほほえんだ。
エヴルー伯爵の告白はアングレーム伯爵をいい気持ちにさせた。
そして彼は彼の信念を曲げるべきではないと再確認した。
「ですから私は正直に申し上げます。命が生まれることは、万人にとって尊きことです。それが獅子王の御血筋となればなおのこと。そしてその尊き生誕時において獅子であられたレオンハルト殿下こそ、次代が獅子であられると私は信じます」
アングレーム伯爵の主張に、ガスコーニュ侯爵がうなった。
「自身が煮え切らぬ男だとはこれまで知らなんだ。そのように聞くと、やはり次代が獅子はレオンハルト殿であるように思う。まあ、そうは言っても、二対五ではな」
ガスコーニュ侯爵は顔をあげ、リシュリュー侯爵を見た。
「うん? リシュリュー侯の支持はいまだ不明であったな。貴公はどちらにつく?」
◇
「ジークフリート殿下はいよいよ立太子されるのだね」
クロヴィスが張りつめていた息を吐きだした。
幻は消え去り、部屋はもとに戻っていた。
亜麻色の絨毯、ロンデル窓、壁にかかったタペストリー、ミュスカデの刺した刺繍作品の数々、針と糸、布をはさみこんだ刺繍枠、飲みかけのお茶、手つかずの焼き菓子、燭台の炎。そういった馴染み深い品々に。
「ようやくだね、ミュスカデ。おまえもずいぶん待たされた」
クロヴィスが振り返るとミュスカデは彼の予想に反して、かたくくちびるを引き結んでいた。
「ミュスカデ? 嬉しくないのかい?」
ミュスカデのまなざしはクロヴィスではなく、いまや窓の外へ飛び去った鷲へと注がれていた。
彼女はゆっくりと口を開いた。くちびるは震えていた。
「わたくしの身も心も、そして魂でさえも。すべてジークフリート様のものです。ジークフリート様に、捧げます。あなたが望むのなら、わたくしは何者にでもなりましょう」
窓の外を見つめ、ミュスカデは深刻ぶった決意を語った。いかにも悲劇の姫君のようなふるまいであった。
クロヴィスは肩をすくめた。ミュスカデに贈られた刺繍を改めて手に取る。
「父上はジークフリート殿下が戴冠なされたおりには、宰相職を返上し、『家業に励み、悠々自適に罪人の首を刎ねられる』ご予定だそうだけど」
クロヴィスは、白い絹の上で両翼を広げる鷲を眺めた。
「父上がまっさきに刎ねる首は、トライデントが守護神、英雄トリトン公子だろうなぁ」