6 ナタリーと猫(2)
「陛下!」
咲き誇る薔薇の根本近く、重なる青々とした薔薇がガサリと揺れた。
「……陛下。おいでくださいまし」
呼びかける声に、葉がもう一度ガサリと揺れたものの、呼ばれた者は往生際悪く姿を見せない。
「へーいーかー」
滑らかなビロードのローブを身に纏った少女。豊かな黒髪をバサリと肩から払い、両手を腰に当てた。
黒一色の単調なローブ。よく見ると、ローブと同じ黒い糸で、精緻な刺繍が施されている。
ローブの下にちらりと覗く胸元には、メダル型の勲章がいくつも並んでいた。彼女が数々の功績を挙げた誉れ高い軍人であることがわかる。
またローブが新緑ではなく漆黒であることから、魔術師団ではなく魔法騎士団に所属していると知れた。
「……陛下じゃない」
薔薇の根本から拗ねたような声が聞こえてくる。
「戴冠なされたでしょう」
少女はカサカサと揺れる葉へ、呆れた目を向ける。
「それでも。僕が国王なんて間違い」
だから嫌だ。それにその口調も嫌だ。レオンって呼ばなきゃ返事しない。と駄々をこねる相手に、少女はつり上げていた眉を下げ、嘆息した。
しゃがみこんで、葉を手でそっと払う。
「……レオン、お顔を見せて」
声色を和らげ、少女が困り顔で微笑む。
重なった葉の間から、燃え盛る太陽のような黄金の仔獅子がおずおずと現れた。
「ナタリー……」
艷やかな黄金の毛に葉を絡ませた仔獅子は、ナタリーと呼ばれた少女に抱き上げられる。
ナタリーが優しく葉を取り払った。
「ナタリー、君は納得しているの?」
ふわふわとした毛並みの仔獅子は、ナタリーの腕にすっぽりと入った。その愛らしさにナタリーの頬が緩む。
ナタリーの目つきはまるで、仔獅子をちょっとしたペットであると言わんばかりだ。仔獅子は、ムッとしたように鼻を鳴らした。
ナタリーは慌てて返事をする。
「納得も何も。あなたに青い血が表れたことが全てだわ」
「それでも! 僕は第五王子だった!」
仔獅子は爪を引っ込めた肉球で、ナタリーの手をペチンと叩く。
ペチン。可愛い。肉球のふにっとした感触と、ペチン。
なんという弱々しさ。なんという愛らしさ。仔猫(仔獅子だからな!)の反撃。可愛い。たまらない。
「……もう何度も聞いたけど」
デレデレと仔獅子を愛でるナタリーに、仔獅子は嫌そうな顔をして、少しナタリーから遠ざかる。
「君、僕のことペットか何かだと思っていない?」
「まさか。そんな不敬なこと。これっぽっちも考えたことはございません、陛下」
「なんでまた敬語」
レオンと呼ばれた仔獅子は、「まあいいよ、ペットでも何でも」と言って嘆息した。
「まぁレオン! そういうことなら、あとで猫じゃらしで遊びましょ!」
ウキウキと楽しそうな声をあげるナタリーに、レオン――元第五王子、現国王レオンハルトは、鋭い視線を投げる。
「ペットでもいいけど。僕はナタリーにしか懐かない。国に尻尾を振るつもりはない」
「あら、レオンは国王陛下でいらっしゃるのよ。誰に尻尾を振ることがあって?」
レオンハルトがぴょんっとナタリーの腕から飛び降りた。ナタリーが残念そうに飛び立ったレオンハルトを見る。
「僕の隣に立つのは、ナタリーだけだってことだよ」
小さな子獅子が途端に、十代半ばの少年の姿に変わる。
濃い黄金の髪は短く刈られ、南の海のような翠がかった蒼い目は切れ長。細い鼻梁に、固く引き結ばれた薄い唇。まっすぐに伸びた顎はすっきりとして麗しく。
少女達が夢見る王子様を写し取ったかのよう。
まだ少年の域は出ないものの、白い艶のあるシルクシャツに袖を通した肢体は、程よく筋肉のついていることが伺われ、シャツと共布の首巻きからは男らしい首筋が覗く。
地厚で艶のあるアイボリーの胴衣には、蔦の葉を描く金の刺繍がなされ、長い足は詰め物のされたウールのショースに包まれている。
これぞまさに王子様といった出で立ち。
しかし王子様ではなく国王その人である。本人は否定しているが。
「メロヴィング公爵令嬢は、兄上の婚約者だ」
レオンは秀麗な眉を寄せる。
「返すようだけどレオン。メロヴィング公爵令嬢は、王太子殿下の婚約者だったのよ」
「同じことだよ」
「違うわ」
きっぱりと否定するナタリーに、レオンハルトは苦しそうに声を絞り出す。
「僕の婚約者は、ナタリーだろう?」
軽く俯いたレオンハルトは、懇願するようにナタリーを上目遣いで見やる。
ナタリーは眦を下げ、微かな微笑みを口元に湛えた。
「ナタリー。僕は君と共にある未来だけを思い描いてきたんだよ」
レオンハルトはナタリーへと、重ねてすがった。
「ええ、レオン、わかっているわ」
「わかってない!」
レオンハルトはナタリーの薄い肩を力強く掴んだ。
勢いに押され、ぐらりと傾いだナタリーの腰を片方の手で寄せる。レオンハルトとナタリーの身体がぴたりと隙間なく寄り添う。
「ナタリー、僕には君しかいないんだ。他の誰も娶らない」
「あたしは王妃にはなれないわ」
「王妃に求められる家格は、伯爵以上だ。君は青い血を引く、この国の貴族令嬢じゃないか」
レオンハルトがナタリーの白い頬を指でなぞる。
「辺境伯の娘だからよ、レオン」
ナタリーはレオンハルトの手をそっと包んだ。
「わかっているでしょう?」
眉間に険しく皺を刻み、蒼い瞳を揺らすレオンハルトを前に、ナタリーは力なく微笑んだ。