5 夜のテント
剣を長持の上に置き、レオンハルトは寝台に身を横たえた。
テントの骨組みがよく見えた。
頂点の棟。斜めに布を張る合掌。テントの面積規模を決める桁。筋交いで繋がれた梁と柱。
レオンハルトはキャンベル辺境伯軍内の、並みいる指揮官達の中でも、ひときわ大きく、立派なテントを与えられていた。
ひどく疲れていたが、気が立っているのか、まぶたを閉じようとしても、すぐに目はこじ開けられた。
意識を手放したくとも解放してはもらえず、覚醒を強制される。
レオンハルトは自由に眠る権利を獲得するための、空しい抵抗を諦めた。それでじっと天井を見つめていた。
棚に置かれたいくつもの蝋燭が揺らめき、伸びたり縮んだりする影遊びが、ぴんと張られた布の上、勝手に展開されていた。
「入るわよ」
入口の布がめくれあがり、ナタリーのブーツがレオンハルトの視界の端に映った。
新たに滑り込んだ影は長く伸び、骨組みの上を滑った。
「君、まだ寝ていなかったのか」
ナタリーの顔も見ずに、レオンハルトは言った。
声には明らかに苛立ちが含まれていた。
「お互い様でしょ」
からかうように笑い、ナタリーはレオンハルトの頭のすぐ近くに腰をおろした。
「最近様子がおかしいわね、レオン」
ナタリーがレオンハルトの額を優しくなであげた。
レオンハルトの髪にナタリーの指先が触れた。
柔らかく艶があり、黄金に輝いていたはずの巻き毛は、ごわごわと強張って固まり、艶はなく、色褪せていた。
「エノシガイオス家の旗印があがってからだわ。他家の旗印には、興味も示さなかったのに」
ナタリーはレオンの頬骨をゆっくりとなぞった。
「トライデントの濃紺色に、交叉する金色の三叉槍、浮かぶ銀色の月――」
レオンハルトは言葉途中でナタリーの手を払いのけた。
乱暴にではなかった。だが優しくもなかった。
起き上がると、レオンハルトはナタリーの目を見た。
ナタリーの髪や肌は、水で洗い流してなお、薄汚れていたが、黒い瞳だけはきらきらと輝き、活力がみなぎっていた。
高貴な出自の令嬢らしく磨かれることもなく。男達とともに殺し合いに身を投じながら、ひたすらに汚れていくだけのナタリーは、いまだ美しかった。
「くだらない話だよ」
レオンハルトは慌ててナタリーから目をそらし、投げやりに言った。
「聞いてみなければわからないわ」
ナタリーは首を振った。
「それに、このまま心ここにあらずで戦場に立たれるのじゃ、怖くて背中を預けられない」
「それは、ごめん。悪かった」
レオンハルトはきまりが悪そうに言葉を詰まらせた。
「あら、いいのよ。明日からしゃんとしてくれるのなら」
ナタリーはにやりと不敵に笑った。
レオンハルトは深く息を吐きだすと、両手で顔を覆った。
「本当に聞くつもりが?」
「あるから来たのよ、ここに。こんな時間に」
ナタリーが頷けば、レオンハルトは呻いた。
おしゃべりをしたい気分ではなかった。
特に、血肉を散々浴びた戦のあと、尋常なく興奮しきった夜では。
テントで二人きりになる相手は、ナタリーだけは絶対に嫌だった。
それはナタリーも同じだろうとレオンハルトは思った。
レオンハルトがどうしても、戦場の夜をだれかと共に過ごさなければならないのであれば、その相手は愛する人であってほしくなかった。
ナタリーは今後も、戦力の要として活躍し続けてもらわなくてはならない。
今、ナタリーが腹に子を宿せば、確実に勝機を逃す。
ナタリーはすでに、初潮を迎えていた。
レオンハルトはこのテントから、ナタリーに今すぐ出て行ってほしかった。
「僕が殺した兵士ら。彼等とて、待つ家族があっただろう」
レオンハルトは観念して、ぽつりぽつりと語り始めた。
「妻が、子が。父親の帰りを、今もきっと待っている」
レオンハルトは両の手のひらを開き、刻み込まれた傷痕や汚れを眺めながら続けた。
「僕と同じくらい、若い兵もいた。老いた母が、昼夜を問わず彼の無事を祈り、一睡もできずに震えているのかもしれない」
「いまさらなことを言うのね」
レオンハルトが顔をあげると、ナタリーから軽蔑のまなざしが向けられていた。
レオンハルトは肩をすくめた。
「うん。いまさらだ。これまでだって、僕は多くの人々の生命を奪ってきた。わかっているよ」
レオンハルトはナタリーからできるだけ距離をとって、朗らかに笑ってみせた。
「だから、くだらないって言ったろう」
ナタリーは目玉をぐるりと回し、大げさなやり方でため息をついた。
「災いを引き寄せるだけの薄っぺらで、安易な良心もどきや」
ナタリーは腕を組み、眉間にシワを寄せて深刻そうな顔つきをつくろってみせた。
「『正義とは何か』の悩める思春期につかまったってわけ?」
ナタリーの芝居がかった言い回しと声の調子に、レオンハルトは皮肉げに口の端をあげた。
「その通り。優しいだけの王子様の役を、もう一度演じたくなってね」
「そんな役を演じたことは、一度だってなかったでしょ」
ナタリーは明らかに不満そうだった。
口を尖らせ、レオンハルトへと立て膝でにじり寄る。羽毛の詰まった布団がナタリーの重みで沈んだ。
レオンハルトは顔をそむけた。
「なにが原因なの? エノシガイオス家の旗印になにが?」
ナタリーがレオンハルトの頬をなでた。
「教えて」
レオンハルトは自身の顔をまさぐるナタリーの指先を握り、ナタリーと見つめ合った。
ナタリーがレオンハルトの首に腕を回すと、レオンハルトは諦めたように顎をそらし、天井を見た。そして目をつむった。
レオンハルトの眉間が、ぎゅっと寄せられた。
ナタリーはレオンハルトが切り出すのを、辛抱強く待った。




