5 ナタリーと猫(1)
「はー、疲れた」
やれやれ、と女は椅子に腰を下ろす。
レオンに断りなく遠慮なく女が座ったその椅子は、居室にある唯一の椅子だ。
レオンは仕方なく、診療室で用いている、レオンの診察用の椅子を居室に引きずってくる。
ジャックはいつの間にか、またクーファンの中でスヤスヤと寝息を立てている。危機感がない。
レオンがジャックに目をやると、女がそれを見咎めた。
「その子、レオンの子?」
細い指先をジャックに突きつけ、眉間にシワを寄せる女は、不機嫌そうだ。低くおさえられた声は、レオンを責めているようにも聞こえる。
レオンは女とジャックの間を遮る位置に椅子を置く。ゆっくりと腰を下ろして、静かに深く息を吸う。拳を軽く握って顔を上げる。
そして穏やかに、にっこりとレオンは微笑みかけた。
「それは、あなたに関係のあることでしょうか?」
女は何度かまばたきをすると目を丸くした。
レオンの顔をまじまじと眺める。
それから女は突然「ああ!」と手を叩いかと思うと破顔した。
「あなたのそういうところ! うん、懐かしい! 懐かしいわ!」
嬉しそうに声をあげて、屈託なくレオンに笑いかける。
懐かしいとは一体。
「やだもう、可愛い! そういうツンケンした態度、もう全然とってくれなくなっちゃったじゃない? 逆毛立った猫みたい! 可愛い!」
いつの間にか椅子から立ち上がった女はレオンのすぐ側にいて、バシバシとレオンの肩を叩く。
痛い。やめてほしい。
それから「可愛い」もやめてほしい。
不本意ながら、大変言われ慣れている言葉ではあるが。村の女からも「レオン先生が村で一番可愛い」と言われることもあるが。よくあるが。
それでもやめてほしい。
「なにかこう、警戒心バシバシの猫を手懐けるときの快感というのかしら? レオンって猫でしょ? あ、レオンという名前はライオンに起源が、とか、うるさいのはもういいのよ。レオンは猫。それで決まり。猫といえば使い魔、使い魔といえば下僕、下僕といえばレオン! そうでしょ!」
まさに立て板に水。女の口はよどみなく回る。
意味のよくわからないことをレオンに決定事項として押し付けて、レオンの肩を叩いてくる。まだ叩いてる。もういい加減にしろ。あと猫じゃない。
黒耀石のような大きな瞳をキラキラ輝かせて、女はレオンに顔を寄せる。
近い。顔が近い。
レオンが鼻先近くまで寄せられた女の顔を、眉間に皺を寄せて眺めていると、レオンの肩を叩いていて手が止まった。
女の細く白い指が、その爪の先が弧を描く。レオンの頬に指先が触れる。
「レオンといえばあたし。そうでしょう?」
女はまなじりを細め、紅い唇がほころぶ。
つくりものめいてすらいる白く光沢のある頬。それが、ほんのりと淡く薔薇色に色づきはじめる。
たしかにレオンも、ツリ目がちで冷たく、謎めいた不思議な女を初めて目にしたとき。彼女を美しいとは思った。
それでも、慎重な警戒心は、レオンの頭から抜け出すことはなかった。
けれど。
この微笑みは。
──ナタリー……。
レオンの脳裏によぎるのは、あの庭園。
退屈な授業を抜け出して、二人でこっそり落ち合った。あの懐かしい庭園。
二人が逢瀬を交わしていたころ、あの庭園は王太后マリーの好みを反映させ、様々な色の薔薇が咲き誇っていた。
母である王太后マリーは、愛らしいオールドローズを好んだ。
可憐で小さな白いつるバラ。
薄紅色の花弁が幾重にも重なるもの。
白い一重の花弁に、黄色い花芯が素朴なもの。
花弁の先端がフリル状になった、シャーベットオレンジの愛らしいもの。
薫り高い大倫の黒薔薇があの庭園に植えられるようになったのは、もっとずっとあと。
庭園に立ち入るのが、レオンただ一人だけになったころ。
だから王宮を抜け出して、獅子となって──獅子であって猫じゃない──隠れていたあのとき、庭園にはまだ様々な薔薇が咲いていたはずだ。