3 赤い血
ジークフリートは目を丸くしたが、すぐに姿勢を正した。
転がり込んだ幼児の勢いに押され、レオンハルトは尻もちをついていた。
レオンハルトと幼児の二人は抱き合ったまま、海に転がり落ちることもなく。ジークフリートを巻き込むこともなく。
海を渡る爽やかな潮風が、三人の髪をさらっては吹き抜けていった。
レオンハルトは、ほっと息をついた。それから、腕の中に抱え込んだ幼児を睨めつけた。
「危ないですよ!」
レオンハルトが甲高い声で、幼児を叱りつけた。
「ふざけて遊ぶのは、波止場から離れた、陸のもっと上の方で――」
自身もまた、兄に水をかけてふざけていたレオンハルトだったが、自身を棚上げし幼児を説教しようとした。だがジークフリートがさえぎる。
「待て。レオン」
ジークフリートは怯える幼児に歩み寄り、膝を折った。
「怪我をしている」
ジークフリートが幼児のふくふくと柔らかく、小さく可愛らしい、だがそれ以上に痛々しい、痣まみれの手を取った。
幼児はびくりと大きく肩を揺らした。
痣ができて間もない赤や青、それから皮膚の深いところを損じた黒、日が経った黄緑に茶など。
まるで腕にびっしりとカビが生えたかのように、色とりどりの痣があった。
「鞭の痕か。それに、これは――」
ジークリートは眉根をきつく結び、幼児の痣をそっと触れてなぞった。
「酷い裂傷だ」
ジークフリートは痛ましそうに幼児を眺めた。
怯えきった幼児の顔を覗き込むジークフリート。その瞳には、哀れみが濃く浮かんでいた。
「どこから来た? 名は何という」
ジークフリートが尋ねるが、幼児は怖々と首を振った。
「怒鳴ってしまい、悪いことをしてしまいました。僕達は怒っていません。家はどちらですか? 君の名前は?」
レオンハルトが重ねて問うも、幼児は答えない。
ジークフリートとレオンハルトが目を合わせる。
幼児はゆるんだレオンハルトの腕から、するりと抜け出た。
「あっ」
思わずレオンハルトは声をあげた。
幼児はジークフリートとレオンハルト、二人の顔を見比べてから、自身の後方へと指をさした。
幼児の指先には、幾隻も並ぶ船のうち、黒光りする威風堂々とした船体。
帆は仕舞われていたが、船首に掲げられた旗が、ゆったりと優雅な様子で風になびいていた。
旗の地の色は濃紺色。紋章は交叉する金色の槍と、その上に浮かぶ銀色の月。
フランクベルト王国に属する、どの領主のものでもない家紋。
「あれは――」
レオンハルトが息をのむ。ジークフリートは立ち上がった。
幼児は一目散に駆け出した。あっという間に、わたり板を行き交いする、大勢の水夫達に紛れてしまった。
ジークフリートは自身の指先へと、視線を落とした。
そこには幼児の腕に触れたときに付着した、赤い血がわずかに残っていた。
「レオン。覚えておけ。我等が守るべき、無辜の民が血は、赤いのだ」
ジークフリートは幼き子供の流した血を刻み込むように、肉づきの薄い手のひらへ爪を食い込ませ、拳を固く握りしめた。
「我が国の一部の者達を除いて――王侯貴族以外。すべての者には、赤い血潮が流れている。我等が敵対する国の民も同様に、血は赤い。赤いのだ、レオン」
ジークフリートはレオンハルトの目を見て、言った。
「我が国の民も、敵国の人間も。皆、血は赤い」
レオンハルトも立ち上がり、「はい」と頷いた。
ジークフリートとレオンハルトの衣服は、砂や貝殻の砕かれた粉末などで白く汚れていた。
◇
赤黒い血に塗れた兜を、首ごと空高く飛ばし、ナタリーは叫んだ。
「レオン! 頼むわよ!」
ナタリーはこれから、大掛かりな攻撃魔法を展開するつもりなのだ。味方はこれに備えて既に、レオンハルトとナタリーを残し、やや遠巻きに陣を取っていた。
ナタリーの広域攻撃魔法は強大だ。
だがその間、他事が手薄になる。
レオンハルトはナタリーの背後にぴたりとつき、彼女を守るように剣を構えた。
薙ぎ払い、突き出し、ひねり、引き抜き。
噴き出す血は赤い。
レオンハルトへと、たった今生命を終えた敵の鮮血が、勢いよく降り注ぐ。
雨のようだった。
冬の雨のように冷たくはなく、夏の雨のように生温かった。
そして赤かった。
敵国が掲げる濃紺色の旗印は、数多の人間の血に染まり、紋章はほとんど見えなかった。
戦場で流された血のほとんどが、赤かった。
レオンハルトの脳裏に、いつの日かのジークフリートの言葉が浮かび上がった。
――守るべき無辜の民。
――皆、血は赤い。
レオンハルトが今よりずっと幼く、キャンベル辺境伯領を訪ねたこともなく、まだナタリーとも出会う前。
祖父リシュリュー侯爵領の港町で、ジークフリートとレオンハルトが、無邪気に水遊びをしていた日々のこと。
凪いだ初夏の海の上、濃紺色の旗がなびいていた。
紋章は交叉する金色の槍と、その上に浮かぶ銀色の月だった。
今や血で塗り潰された紋章。
その代わりに、戦場のこの場に見えるのは、敵味方で交叉する、血と脂に塗れた槍と、血煙の空に浮かぶ、真昼の月。
あのときの幼児は今、どうしているだろうか。




