1 リシュリュー侯爵の旗印
王妃とその実子であるジークフリート、レオンハルトの兄弟は、リシュリュー侯爵領へと訪れることが度々あった。
父王は王宮に留まっている。母子のみで母方生家への帰省である。
王妃の生家であり、建国の七忠が一つ。
リシュリュー侯爵領は、フランクベルト王国において交易の要であった。
しかし近隣諸国との友好関係の悪化により、その役割、重要性は薄らぎつつある。
近年、リシュリュー侯爵の名を最もよく響かせるのは、それは芸術の保護者としての存在だ。
よってリシュリュー侯爵領には、才のあるなしに関わらず、分野を問わず、芸術家を志す者達がこぞって集う。
リシュリュー侯爵領は、交易で栄える港町と、国中の美が競われる芸術の都とで名を馳せていた。
白く眩しい太陽が、澄み渡った空の真南、その頂点に達した頃。
領主リシュリュー侯爵は、さほど珍しくもない賓客を朝食の席に招いた。
侯爵の他に、侯爵夫人、それから次期領主である長男夫妻とその子供たちが、王妃とジークフリート、レオンハルトの三人に歓待を示した。
このとき、ジークフリート十六歳。レオンハルト八歳。
昨年、第一王子ジークフリートは、自身の成年の儀において、成年王族の一員に加わったことを国中に宣言していた。
「お父様」
ナプキンで口もとを拭うと、王妃は澄ました様子で口を開いた。
「本日は、婦人方の開かれるサロンへ出向きます。つきましては、前もってご許可を」
リシュリュー侯爵は眉をひそめたが、結局は頷いた。
「それでは失礼致します」
王妃は王宮から連れてきた自身の侍女へと目線を送った。
侍女が椅子を引き、王妃は席を立つ。二人は連れ立って退室した。
ジークフリートは母王妃の背を見送ると、祖父リシュリュー侯爵に向き直った。
「侯爵は母に甘過ぎる」
「殿下は手厳しい」
リシュリュー侯爵は眉を上げ、肩をすくめた。
祖父の気安い素振りに、ジークフリートは冷たい視線を投げた。
「私は二人目の弟を欲してはいない」
「二人目どころか。ジークフリート殿には、既に四名もの弟王子殿がおられる」
からかうように口を出したのは、次期リシュリュー侯爵ヴィエルジュ。王妃の兄であり、ジークフリートの伯父だ。
彼はちらりとレオンハルトを見た。
「おや。こちらにも、お一人おられたようだ」
ジークフリートは伯父ヴィエルジュの軽口を無視し、祖父リシュリュー侯爵に再度喚起した。
「貴方がたの能力は、あのような野蛮を許さずとも行使できるはずだ」
「ジークフリート殿は芸術をご存知ないようですね」
またしてもジークフリートに応えたのは、祖父リシュリュー侯爵ではなく、その長男。ジークフリートの伯父、ヴィエルジュだった。
「愛と憎しみと。複雑な心の働きを知ってこそ、人は凡庸を超えた芸術を生み出す。我等一族はその手助けをしたいのです」
ジークフリートは伯父ヴィエルジュを見なかった。
だがレオンハルトは、彼が自身の細君に微笑みかけ、饒舌に語るのを睨みつけた。
「貴方は愛の何を知っているの」
憎々しげにレオンハルトが問えば、伯父ヴィエルジュは細君にしたように優美な微笑みを返した。
「愛とは何か。実に深淵なる問いです」
ヴィエルジュは顎をしゃくり、考え込むような素振りを見せた。
「しかし芸術とは、眠り、食べ、定められた秩序を守るだけの人間には、到底成し遂げることの叶わぬ神秘ですよ。レオンハルト殿」
ヴィエルジュの妻子は、自身の夫、または父が、悪徳を勧めることに、恍惚とした様子で聞き入っていた。
「我が愛する妹。貴方がたの母上は、確かに王妃ではある。ですが彼女は、リシュリュー家の女なのです」
ヴィエルジュは立ち上がり、細君の髪を一房手にして口づけた。
「何しろ、美しい花から花へと飛び回るのが、蝶の流儀でございますゆえに」
彼等家族は揃って、壁に飾られた旗印を見上げた。
赤地に青の一本線。
リシュリュー侯爵の旗印である赤地に引かれる一本の青は、ヴリリエール公爵のそれより一つ左隣に引かれている。
ジークフリートはカトラリーを置き、ワインを含んだ。
辛口の白。リシュリュー侯爵領の銘産物だ。
「私はリシュリュー家の人間ではない」
ジークフリートはきっぱりと告げ、レオンハルトを見た。
「我が唯一の弟、レオンハルトも。我等はフランクベルト家の人間だ」
「しかし御身体には我がリシュリュー家の血が――」
「蝶は浮かばぬぞ」
ヴィエルジュの演説は、甥ジークフリートの拒絶で幕を閉じた。
だがヴィエルジュは甥達、ジークフリートとレオンハルトの去り際、「貴方の御心は氷のように冷たい」と呟いた。
「燃える獅子の心とは違っておられる」
ジークフリートは振り向かず、兄のすぐ後ろを歩くレオンハルトは、憐れみを乞うような伯父ヴィエルジュの目を見た。
通り過ぎざま、レオンハルトの手首を伯父ヴィエルジュが掴んだが、レオンハルトは慌てて振りほどいた。
「レオンハルト殿は我が名がヴィエルジュであることに、我等家族と共に膝を打ってくださいますね?」
ヴィエルジュはにこやかに笑いかけた。
レオンハルトは当惑して、兄ジークフリートの背に縋った。
テーブルについたままの従兄姉たちが手を叩き、いかにもおかしそうに甲高い歓声をあげた。
リシュリュー侯爵が、おざなりに内孫をたしなめた。祖父自身も笑っていた。
伯父ヴィエルジュの名は、祖父リシュリュー侯爵が命名したのだ。もちろん。




