閑話 燃え落ちた初恋(2)
ジャックとリナの二人は、少年の案内で彼の家に忍び込んだ。
だが三人が満足に冒険を成し遂げたと顔を上げた先には、少年の母と姉が立ちはだかっていた。
煤けて真っ黒な子供たちを、腕を組んで見下ろしている。
見上げた母と姉の顔は、その凹凸に合わせて光と影が強調され、明暗の対比が際立っていた。迫力があった。
「おかえり」
むっつりと少年の姉が口を開いた。
「ずいぶん小綺麗な恰好になったこと」
「へへへ。かっこいい?」
へらっと少年が返せば、少年の姉は彼の頭を遠慮なく、思いきりはたいた。
「いてっ!」
頭を抱える少年に、彼の姉がギロリと睨みつける。
「このバカ! あんたはまた面倒事を背負い込んで!」
弟に文句を吐き捨てると、少年の姉はまた、ジャックとリナへも鋭い視線を投げかけた。
「あんたらも」
少年の姉は、疲れたように額に手を当て、ため息をつく。
「あんまりこの子を巻き込まないでやってくれないかい?」
やれやれというように、少年の姉が首を振った。
彼女の額には黒い煤で、丸い指の跡が残っていた。弟の頭を叩いたとき、手に付着した煤だった。
「違う! 二人は悪くない!」
その場しのぎに誤魔化そうとヘラヘラしていた少年は、途端に奮い立った。
「最後に木こりのおっちゃん達に会ったとき、どっか変だったからって。妙な感じがして、俺が勝手にこいつらの家に――」
「そうだろうよ。あんたが勝手にやったんだろ。そんなことくらい、あたしだってわかってるさ」
少年の奮起を遮ると、姉は眇めた目を弟に向けた。
「それだからこそ、やめてくれって言ってるんだ。英雄ごっこは、たくさんだよ」
少年は助けを求めるように、母親へと視線を向けた。
「母さん」
しかし母親も悲しそうに眉を寄せ、姉同様に首を振った。乾いて張りのない、たるんだ母親の頬と顎の皮と肉が、力なく揺れた。
少年は目を見開いた。
「どうして……」
「どうしてもこうしてもあるかい」
少年の姉がぴしゃりと言った。
「制裁なんて、二度とごめんなんだよ。山羊になりたいだなんて、あんたくらいのものさ。山羊は飼うものだからね」
少年の姉は、弟の目に怒りを見てとった。
少年はわんぱく坊主で、素直でないところがあった。
だが彼が少年らしい正義感のある、心根のまっすぐな優しい子だということは、姉もよくわかっていた。
「よくお聞き」
少年の姉は、弟の肩をつかみ、彼の憤怒に燃える双眸を覗き込んだ。
「この子らは、あんたの手に負えない。だって」
少年からジャックとリナの二人へと、彼の姉は視線を移した。
「さっきばかり、長から伝達があった。この子らを見かけたら、差し出すようにって」
「そんな! だってさっき、あいつら、子供は構うなって――」
ジャックが叫び、リナの黒髪がぶわりと立ち上がった。
言い争う彼らから少し離れた場所にあるテーブルでは、その上にいくつか並んでいたカップのすべてが倒れ、薄い茶色の液体がこぼれた。
燭台の火が消えた。
レオンの小屋と同じくらい簡素な少年の家が、がたがたと悲鳴をあげた。
慌ててジャックがリナに飛びついた。少年も「リナ!」と手を握った。
二人の心配は杞憂に終わった。すぐさま風はおさまった。
少年の姉は「蝋燭だって高いんだよ」と愚痴をこぼしながら、燭台に火を灯しなおした。
「それだろ。本当のところは、それだったんだろ」
少年の姉は、何度目か知れないため息をついた。
「この子が」
姉は弟の髪をぐしゃりと掻きまわした。
「リナ。あんたをかばってやったんだろ。木こりの旦那に、大怪我させたっていうのはさ」
まっすぐに向けられる眼差しから、リナは逃げ、視線をそらした。指先に髪の毛を、くるくると巻きつける。
都合が悪くなったり、言い逃れようとしたり、なにか苦しいような状況で思案するときの、リナの癖だった。
「リナ、あんたを責めてるわけじゃない」
少年の姉は慌てて言った。
「言いたくないことは、言わなくていい」
リナは顔を上げ、少年達家族を見た。
少年の姉が困ったように眉尻を下げた。彼女の額の上で、指あとの黒い煤が、生き物のように動いた。
「あんたらの事情は知らない。そりゃ、かばってやれるなら、あたしだってかばってやりたい。だけどさ」
悔しそうに、少年の姉がくちびるを噛む。
「あたし達、この村で暮らしてるんだ。制裁されてずっとなんか、生活できやしない。ここから出て行って、どうやって暮らせっていうんだ。父さんだって、まだ帰ってきちゃいないのに」
「それなら、こいつらだって!」
少年は憤然と姉の胸を押しのけた。
「この村から追い出されて、どうやって暮らすんだ!」
「わかってるよ! そんなことは、あたしだってわかってるよ!」
弟の糾弾に、姉は金切り声で叫び返した。
姉弟の言い争いを前に、リナの胸に浮かぶものがあった。レオンの説教だ。
――率直でありなさい。誠実でありなさい。
正しい道はわからない。
どちらにどう進めばいいのか迷う。
でも自分の足で立ち、前を向くことさえできれば、きっと導いてくれる。
レオンがそう言っていた。
リナはうつむき、胸の前で両手を組み合わせた。
足元の床を見つめた。
薄い色の板と板とが、規則的に並んでいた。
光源は室内中央にある炉で、揺らめく橙色の炎があたりを照らしていた。
炉から遠いところは、薄暗闇に包まれていた。
レオンの小屋ほどには、燭台の数はなかった。
少年の姉の言う通り、蝋燭はそれなりに高価だ。
たとえ、獣の脂を固めた、臭いのあまりよくない、黒い煤の出る蝋だろうと。
少年の家には山羊が数頭いたが、蝋燭のためだけに縊るわけにはいかない。まだまだ乳を出してもらわないといけない。
薄明かりに照らされた床には、ところどころに染みがあった。
板は欠けたり、ささくれだったりするところもあった。
レオンの小屋と同じくらい貧弱な、この村によくある家のつくり。
ナタリーの防御魔法が施されていない、見かけ通りの強靭性しか持ちえない家。
リナは顔を上げて口を開いた。
「心配いらないよ。だって私、魔女だから」
姉弟が揃って、リナへと振り返る。
「手品だなんて、嘘ついてごめん」
リナはぎこちなく笑った。
「あれね、魔法だったの」
「魔法って、まさか」
少年の姉が息を飲んだ。
「あんたら、お貴族様ってことかい」
少年は姉の言葉に、くしゃりと顔を歪めた。
「ちげぇだろ! 手品でいいんだ! だって手品なら、ずっと一緒に――」
「ううん。魔法なの。しかも私、たぶん、結構強いよ。だってさ」
リナは少年をさえぎり、ぎこちなくならずにニヤリとした。
「あのナタリーの娘なんだもん。だから大丈夫」
少年はリナの首に腕をまわし、しがみついた。
狼のように吠えたいのを堪え、少年はリナの髪をぐしゃぐしゃに搔き乱した。
リナも少年の頭を掻きまわし返す。
「ほら、強い」
リナはぽかりと少年の頭に拳を当てた。
少年が「いてぇよ、バカ」となじれば、リナは「あとでぶん殴るって言ったでしょ」と返した。
「なぁ、リナ」
少年は体を引き離してリナを見つめた。目は真っ赤だった。
「俺の名前を呼んでよ」
少年は歯を見せて、ニカッと笑ってみせた。
「リナ。おまえ、全然俺の名前、呼んでくれねぇんだもん。呼んでくれよ」
リナは鼻をすすった。煙臭く、いがいがして、ほこりっぽかった。
「頼むよ」と少年が重ねて懇願すると、リナは頷いた。
「これまでありがとう、ニール」
リナは少年の両手を掬い上げて、固く握った。
「さようなら、ニール」
ニールは唸り声を噛み殺した。煤けた頬には、涙の線がくっきりと描かれた。
リナはもう一度、ニールを抱擁した。
ニールとリナが体を離すのを待って、ジャックもまたニールと強く抱擁した。
互いの背中を、拳で何度も叩き合った。
ニールがジャックの耳元に「ジャック。おまえ、必ずリナを守れよ」と涙声で凄むのを、ジャックは「必ず」と返した。
それからジャックとリナの二人は、夜が明けきらぬ前に、ニールの家をこっそりと抜け出ることになった。
レオンとナタリーに会えたら、ジャックとリナの逃げた、子供たちだけが知っている秘密の抜け道を必ず伝えると、ニールが請け負った。
加熱処理した山羊乳に、井戸水をたっぷり入れた皮袋をそれぞれ。日持ちのする硬いパン、砂糖たっぷりのジャム、燻製肉、塩。
持てるだけの食料と少しの着替えを詰め込んで、ニールの母と姉が二人に渡した。
「こんなことしか、してやれないけど」と苦しげな様子で差し出されたことに、ジャックとリナは心から礼を言った。
それからニールの母が息子を呼び、何かを手渡した。ニールは小さく頷き、リナの手を引き寄せた。
「金が必要になったら、これを売ってくれ」
ニールはリナの手のひらに、小さく冷たい何かを握らせた。
「たいした足しにはならねぇかもしれねぇけど。でも」
ぎゅっとリナの手を包み込んでから、ニールは手を離した。
「父さんが、母さんに贈ったんだってさ。俺に大事な子ができたらって。前からそう言われてた」
握らされた手のひらを広げてみれば、そこには銀の指輪があった。
村では見ることの珍しいような、しっかりとした厚みのある、本物の銀だった。
リナが何かを口にする前に、ニールはリナとジャックの背中を押し出した。
「早く行けよ! 行っちまえ!」
ジャックとリナの二人が村を抜ける頃には、朝日はすっかり昇っていた。
あれほどにまで猛烈に燃え盛っていた火柱は、どこにも見当たらなかった。
(閑話 「燃え落ちた初恋」 了)
ニールを主人公とした派生作品、短編「カエルと魔法の杖と秘密の抜け道(https://ncode.syosetu.com/n1638jx/)」がございます。
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