27 うぬぼれ屋たち
ゆらゆらと揺らめく色のない靄の中、レオンと自称王子の二人が閉じ込められた。
誰一人、声をあげてはいない。
小屋を襲う男達がすべて倒れ、荒々しい足音も鋼と鋼がぶつかり合う音も、何かが破壊され崩れる音もない。
ジャックとリナの二人は、クローゼットで息を殺している。
あるとすれば、炉内で薪がたまに爆ぜる音くらいだ。
しかし室内を満たすのは、静寂ではなかった。
空気がざわついていた。ぐるぐると回転し、揺すぶられているようだった。
何かが蠢いている。
ナタリーはゆっくりと二人に近づいた。
凍った木片の上を、ナタリーの足が踏みしめる。足元からパキリと乾いた音がした。
ジャックはリナを抱きしめながら、ナタリーの背中を追う。目が離せない。
カラカラに乾いた喉を潤すように、ジャックはツバを飲み込んだ。
「ナタリー、レオンは……」
「大丈夫よ」
ジャックの問いに、ナタリーはまたもや、簡潔に応えた。
何が大丈夫なのか。何をして、ナタリーがそれほどまで確信しているのか。
だが、先にナタリーが「大丈夫」だと請け負ったときも、大事にはいたらなかった。ジャックのおそろしい危惧は、現実とならなかったではないか。
あのときもナタリーは振り返らなかった。
ジャックのナタリーを凝視する瞳には、不安ではなく期待があった。
ナタリーは靄へ伸ばした手の、その指先を軽く曲げた。
渦巻き流動する靄と、ナタリーの指先との繋がりが切れる。
ナタリーは再び指先を伸ばし、てのひらを広げた。レオンと自称王子の二人を飲み込んだ靄へと、手を翳す。
「大丈夫か。そうだな」
だが靄の中から聞こえてきたのは、慌てる素振りのない、調子の変わらぬ平坦な声。
「俺は大丈夫だ」
レオンより若く、張りのある声。
「ついでにこの男も」
上に立つ者特有の、傲岸不遜な声。
「心配することはない。少年よ」
ナタリーとジャック、リナの眼前で、靄が晴れた。
色のない、匂いもない空気が、音もなく、急激に退いた。
レオンと自称王子の姿が現れる。さきほどと寸分変わらぬ格好で。
ナタリーの黒曜石のような瞳が、大きく見開かれた。
「おまえの力で俺を害することはできない」
レオンの首筋には、依然としてギラリと光る白刃が当てられていた。
「魔女よ。おまえは、この男の命と引き換えに、自由を手にするつもりか?」
ナタリーの手から、だらりと力が抜けた。
「ナタリー! 僕にかまわず――」
レオンが声を張れば、そののどを押さえつける刃に、自称王子が力を込めた。
言葉途中でレオンは口をつぐみ、自称王子がレオンの途絶えた台詞を継ぐ。
「『かまわず逃げろ』か。実に健気じゃないか。どうだ、魔女よ」
自称王子はくっと短く笑った。
「うぬぼれ屋は、誰だろうな」
レオンは歯を食いしばった。
怒りと悔しさ。無力な己自身への羞恥で顔が赤く染まる。
レオンは自称王子の束縛から抜けようと、身体を揺すぶった。
自称王子の腕はぴくりとも動かない。
ローブに身を包み、そしてその下にはさらに、防具を着込んでいるのだろう。冷たく固い、ごつごつとした感触がある。
レオンより若いだろう。
だかしかし、体躯はおそらくレオンより恵まれているのだろう。
ローブに包まれている身体は、レオンより身長が高い。
兜を被っているとして。
そこまで考えたところで、フードの端が妙に突っ張り、いびつだったことにレオンは思い至った。
フードの下に、何がある?
どんな顔が隠されている?
こいつは本当に、王子なのか?
ほとんど動かせないレオンの腕だったが、それでも指先は自由だった。
身体を締めつける力は、血流の阻害されるほど強く、満足に血の行き届かない指先は震えていた。
いや違う。切迫する緊張感による震えかもしれない。
どちらでもよかった。
レオンは震える指先に、神経を集中させた。
そしてローブをつまんだ。手首をわずかながら、ひねることができた。
自称王子の顔を覆っていたフードが、外れた。
くすんだような、淡い色味の金の髪がこぼれ落ちた。
自称王子の頭には、緻密な金細工と宝石の散りばめられた、豪奢な冠があった。
薄暗闇にあっても、それは強い光を放ち、自称王子が身に纏う、簡素なローブから完全に浮いていた。
しかし、王子を自称する男の顔つき。
冷たく、尊大で、高慢な様子。
引き結ばれた薄いくちびるに、琥珀色の切れ長の瞳、まっすぐな鼻梁。
この村ではめったに見ることのない、整いすぎた顔貌。
決意に満ちた表情は、冠を戴くのに充分値していた。
ナタリーが息を呑んだ。
驚愕に見開ききった瞳で、目の前の男を凝視している。
「まさか、あなたまで……!」
ナタリーはぐしゃりと黒髪をつかみ、もう片方の手で口もとを覆った。
「そんなこと……!」
ナタリーがあえいだ。
「なんだ?」
くすんだ金髪の、自称王子が眉をひそめた。
ナタリーの異変をいぶかしむ自称王子。その横顔を、レオンも見た。
レオンを縛り上げる力は緩み、つきつけられた白刃も肌から浮いていた。しかしレオンもまた、動けなかった。
ナタリーとレオン。
二人はまぶたを閉じることを忘れたかのように、自称王子の露わになった顔貌を見つめ、硬直していた。
自称王子は眉間に深くシワを刻み、ナタリーとレオンを比べ見た。
「これのせいか?」
頭上の冠へと自称王子がそっと手を伸ばす。くすんだ金の髪がぱらりと額で揺れた。
自称王子は逡巡するようにレオンを見て、それからナタリーを見た。
そうしてもう一度レオンを見ると、ため息をついてレオンから離れた。
投げやりに剣先をレオンに向け、自称王子がナタリーへと一歩前へ歩み出る。
「魔女よ、なにが――」
自称王子が怪訝そうな声でナタリーに問いかける。
ナタリーは傍目にはっきりそうとわかるほど、身体を震わせた。
ジャックにはナタリーが怯えているように見えた。
その瞬間。
「やだやだやだやだやだやだやだやだぁぁぁぁぁっ!」
ジャックの腕の中で、体を丸め、頭を抱えていたリナが絶叫した。
と同時に、目の眩むような、真っ白な強い閃光が当たり一面に広がった。
バーン! という大きな破裂音。
柱が揺れる。屋根が崩れ落ちようとしている。
それまで床に伏し、凍っていた男達が目覚めた。
あちらこちらで結晶の溶ける、ジュッという音があがった。
呆然と立ちすくんでいたナタリーとレオンは、我に返った。
だが一足遅かった。
ナタリーとレオン。リナとジャック。
大人二人と子供二人の間を引き裂くように、柱が落ちた。
炉内の炎が燃え移る。途端に大きな火柱が上がった。
「リナ!」
ナタリーが叫ぶ。
「ジャック!」
レオンもまた叫んだ。
だがそのレオンの後頭部を、崩れた屋根の一部が強打した。
かすみゆくレオンの視界に映ったのは、くすんだ金髪の、冷たく整いすぎた顔が気づかわし気に歪む様だった。
◇
『ミュスカデも私も、理性を失うことができればな』
ジークフリートは疲れたようにため息をついた。
『おまえたちのように、愚かでありたかった』
『返す言葉もございません』
レオンハルトがうなだれる。
その神妙な様子に、ジークフリートは肩をすくめた。
『我らも次は、そのように生まれてこよう』
『次とは……』
レオンハルトは情けなく眉尻を下げた。
『冗談だ。レオン』
ジークフリートは薄いくちびるに弧を描き、すぐさま口を引き結んだ。
『だがやはり、その赤子は王家で育てるわけにはゆかぬ』
◇
「兄上……」
淡くくすんだ金髪の男が、倒れこむレオンの体を慌てて支えた。
レオンの意識は、深い闇へと沈んでいった。
(第2章 了)




