26 娯楽戦闘
自称王子がレオンの首筋に白刃を当てていた。
この場でただ唯一の、いまだ血を浴びていない剣身。
よく研がれた刃は美しく、ぞっとする輝きを放った。
「王子様のくせに。想像していたより、だいぶ卑怯者だわ」
ナタリーが不満そうに、くちびるを尖らせた。
火を消し去り、雹を降らすといった魔法の行使のため。
レオンやジャック、リナに向けるナタリーの集中力が、ほんのわずか、薄らいだ瞬間だった。
自称王子はその隙を逃さず、レオンの背後を取った。
「卑怯もなにもあるか。人質を取るのは基本だ」
レオンは自称王子の言葉に頷いた。
羽交い締めにされ、のどぼとけが今にも切り裂かれんと剣を突きつけられていたため、実際に頷いたのではない。心の中でだ。
最も少ない労力で的確に弱点をつくことこそ、勝機を得るのに重要だ。なにより被害が、双方にとっても少なく済む。
一方でナタリーは、見世物のような大立ち回りを選んだ。
「おまえの戦いぶりとて、強者として望まれる姿ではあるまい。俺の部下を散々斬ってくれた」
レオンの耳元で、自称王子が苦々しい調子で言った。
満足に首を動かすことのできないレオンは、目だけをギョロリと動かした。
先ほどまで立ち、剣を構えていた男達は皆、床に倒れ伏している。
ナタリーが全員を斬ったというわけではない。
おそらく最後に降り注がれた、大粒の雹が原因だろう。
男達は凍っていた。
纏うローブや鎧、剣。身体の至るところが白い結晶で覆われている。
「あら。当然でしょ? 戦場では弱い者が悪いのよ」
「そうだな。くだらない情けをかけるから、こうなった」
自称王子がレオンの首につきつけた剣を、軽く引いた。
レオンに痛みが走る。
血は滲む程度だろう。だが熱い。刃の引かれた場所が急に、燃えるように感じる。
呼吸をつかさどる器官への脅迫。
心臓を握られているのと同じ、根源的な恐怖。
つばを飲み込むことで、傷口が開くような錯覚に陥る。
レオンは震えるくちびるで、慎重に息を吸った。
「情けをかけたつもりはないわ」
血を滲ませたレオンののどぼとけが上下するのを、ナタリーは見つめた。
戦乱から離れ、平和に浸りすぎた代償だ。
あまりに考えなしの間抜けだった。この程度の展開を読めずにいたなど。勘も体も、なにもかもが鈍っている。
ナタリーは悔しそうにくちびるをかんだ。
「おまえは俺を最初に殺すべきだった」
自称王子が感情ののらない声色で告げれば、ナタリーは肩をすくめた。
「正当防衛のついでに、王子様の使いっ走りへと剣が滑っちゃうのと。王子様本人を殺しちゃうのとじゃ、罪の重さが全然ちがうじゃないの」
「正当防衛? これが?」
自称王子が眉をひそめる。
「そうよ」
ナタリーは頷いた。
自称王子によって身動きを封じられているレオンも、自称王子と同様に、ナタリーの言葉を訝しんだ。
違和感があった。
剣を握らずとも、ナタリーはもっと容易に、穏やかに。この場を制圧できたのではないだろうか。
事実、ナタリーの魔法によって、倒れた男達の全員が、覆われた結晶によって身動きを封じられている。
彼等の生命は、まだ燃えているだろうか。
凍えた身体の中で。彼等は熱い血潮を巡らせているのだろうか。
おそらく生きている。
凍っているだけの男達は。
弱弱しいが、呼吸によってわずかに身体が挙上しているのがわかる。
だが、明らかな致命傷を負う男もいる。
絶望的な出血量の男も。燃え上がり、灰塵になりかけた男も。
ナタリーの剣で直接的に。あるいは間接的に斬り伏せられた者達。
生命を刈り取らずとも。
無傷で戦意を喪失させることは、難しくとも。
せめて、負傷させる程度で。
せめて、心臓から遠い手足に、多少の不自由を抱える程度で。
生きてさえいれば。
生命さえ、守られれば。
医者もどきのレオンにとって、生命は守り、救うべきものだ。
輝かしく、美しく、尊いものだ。
レオンの不安を言い当てるように、自称王子が指摘する。
「俺にはおまえが、ようやく大義名分の立つ見せ場を得たと、弱者に力を見せびらかし、久方ぶりに興じる剣戟の娯楽を堪能しているように見えたが」
そうだ。
レオンにもそう見えた。見えてしまった。
ナタリーは、娯楽狩猟を厭うていた。
だがナタリーは好戦的な性質だった。
鍛錬を口実に、対戦相手を完膚なきまで叩きのめすことを厭わない。
ナタリーは、娯楽戦闘を好んでいた。
そういう一面は、確かにあった。昔から。
レオンの頭の中は混乱していた。
頭痛がひどい。傷つけられた首よりも痛い。脳の回路が焼き切れてしまうような熱さを感じる。
娯楽狩猟に娯楽戦闘? なんのことだ。昔だって? いつのことだ。整合性に欠けている。
「だが、おまえの主張する通り。この殺戮を仮に、過剰なる防衛であったと認めたとして」
自称王子は言った。
「それでも、おまえの言い分は矛盾している」
罪の重さを考慮するのならば。
ナタリーは自称王子の召集に応じればよかった。
彼は最初、歩み出よ、とだけ言った。
罪状は告げられなかった。
レオンは自称王子の求める魔女が、ナタリーを指すのか、それともリナであるのかはわからなかった。
どちらだったとして、みすみす差し出すつもりはなかった。
それだからナタリーに自ら進み出てほしかったというわけではない。捕まってほしかったわけではない。
そうではないが、ナタリーが罪の重さを気にするのならば、矛盾はある。
自称王子の求めに誰も応じず、彼は諦めたような様子でため息をもらした。そして罪状を告げた。
ずいぶんと楽観的に、好意的に考えようとするのならば。
もしかすれば、己の身分とナタリーの罪状とを当初、明らかにしなかったのは、彼なりの温情だったのかもしれない。罪人として捕えようというのではなく。
そのように考えるのは、さすがに屈託のなさすぎる希望ではあるが、それでなくとも、罪の重さについて是非するのならば。
ナタリーは罪人として捕まればよかった。
その後、逃げ出すこと、無罪を主張することがどれほど難しいだろうとしても。
自称王子が、この国の第二王子であると信ずるとして。第二王子御自ら出向いた捕り物で、その罪人がその御手から逃げたとなれば。
罪人の罪は、王族の威信にかけて重くなる。
そもそもが反逆罪だ。
そして逃亡するのならば。
最低限の防衛に終始し、すみやかに脱出を図れたことだろう。
火柱を一瞬で消し去り、男達を凍らせる。おそるべき強大な魔法を有するのなれば。
剣を取る必要は、なかった。
「ああだこうだと、つまらない御託を並べて。そんなに殺してほしかったの?」
苛立ちからか、ナタリーのくちびるがつり上がった。
「お望み通り、今からそうしてあげたら、王子様は喜んでくれるのかしら」
ナタリーが地面と水平に腕を上げ、まっすぐ前に伸ばした。
「お仲間のところへ行くのなら、寂しくないわね」
「こいつも道連れにするのか?」
自称王子が薄く笑う。レオンは首に剣を当てられ、羽交い絞めにされたままだ。
ナタリーはニコリと応じた。
「ご心配なく。レオンとあなたを分けることくらい、容易いの」
狙いを定めた獲物を捕えんと、ナタリーの手のひらが広げられた。
「さようなら。うぬぼれ屋の王子様」
ナタリーのすべての指先から、蜃気楼のようなゆらめきが立ち昇った。
それが自称王子とレオンの二人の身体を覆い尽くすように伸びていく。
あっという間もなく、レオンと自称王子の身体が、得体の知れない靄に飲み込まれた。