4 狂人の訪れ
「レオン! ここを開けなさいっ!」
ガタガタと風に煽られ、悲鳴を上げる扉。そこに女の声が混じる。
「このあたしがわざわざ足を運んであげたのよっ。早く開けなさいっ」
レオンは眉をひそめた。
──誰だ?
ジャックの子守り以外、わざわざ足を運んでもらうような女に、心当たりはない。
そのうえ、もうこんな夜更けだ。
誰かの呼んだ商売女が家を間違えたのだろうか?
レオンはおそるおそる女に問いかけた。
「……あの、何かお間違えでは?」
「……うん? 違う?」
女の居丈高に張り上げられた声が、僅かに戸惑うよう揺れた。
「えーと、じゃあ、レオナルド? レオナール? レナード? リオ? 今回はどれなの?」
今回とはなんだ。
レオンはいぶかしみながらも、女の言葉を思い返してみる。
聞き間違いでないのなら、女は最初からレオンの名を呼んでいた。
この村にレオンという名の者は他にいない。レオナルドもレオナールも、まあとにかくそういった名前の者も他にいない。
ということは、この女は他の誰でもないレオンを呼んでいるということだ。
しかし村の女以外、女に知り合いはいない。
入学早々退学した医術学校に女はいなかったし、この村へとすぐに戻ったのだ。王都で女遊びをするほどの時間もなかった。
王都在住時、朝食のパンをパン屋の娘から買ったとか。あってそれくらい。まさかパン屋の娘が、レオンを追ってここまできたわけではあるまい。
「いえ、僕の名はレオンですが……」
「なんだ! 合ってるんじゃない!」
女の声がホッとしたような温かな色を滲ませる。
それから途端にまた、けたたましく叫ばれる。
「それなら早く開けなさい。もうクタクタなの」
いや、だから誰なんだ。
せめて名乗ってくれたら。とレオンは思う。
名乗られたところで、夜中突然、男の家に乱入しようとする非常識な女だ。そんな知り合いは、レオンにいないが。
とても非常識な女だ。
レオンの頭の中では警戒音が最大音量で鳴り響いている。
この女は変だ。
若い男の家に夜中の乱入。
女の夜の一人歩き。
商売女ならともかく、普通の女じゃない。
レオンの側には、ようやくお座りが出来るようになったジャックがいる。走って逃げるどころか、つかまり立ちだってまだ出来ない。
そう、ジャックだ。
クーファンに小さなクッションを押し込め、それを背にしてちょこん、とお座りするジャックの可愛さといったら……。
あの小さなお手手で机の端をギュッと掴んで、つかまり立ちする姿もきっと、愛らしくて仕方ないのだろう。ああその前にハイハイだろうか。
ジャックは少し、成長がゆっくりだと村の女達が言う。
ゆっくりでいいんだジャック。ぼくは君の成長をのんびり見守っているから。君の思うように育ってくれたらいい。
愛しいジャック。君に日々どれほどの幸せをもらっているか……。
いや今、そんなことを考えている場合ではない。
レオン一人ではないのだ。
ジャックを守らなければならない。
「申し訳ありませんが、貴方に心当たりがないのです」
狂人が暴れだすと困るので、レオンはなるべく穏やかな声を出す。
名前を聞くべきだろうか。
だが聞いたところで、絶対に知り合いではない。それはわかりきっている。
「心当たりがないですって?」
鋭く険のある声があがる。
「ここまであたしを待たせておいて? 心当たりがない?」
待たせるも何も、レオンは女を呼んでなどいない。どうも理不尽な怒りをかったようだ。
しかし狂人かもしれないから、理不尽というのも違うのかもしれない。
「……ええ、残念ながら。全く心当たりがないのです」
なのでお引取りを、とレオンが口を開こうとしたとき、女の細く白い指先が扉にかけられた。
「それなら思い出させてあげるわ!」
ガタガタッ。
深夜とは言わないが、既に暗闇に包まれた夜道を普通の女が一人歩きするはずがない。
若い男のほとんどいない寂れた村とはいえ、若い女が、呑気に夜一人で外出出来るほど、安全が約束されているわけではない。
寂れた村とはいえ、行商人は来るし、小さな村ではあるが、余所者が入り込んだことにいつでも誰でも気がつくということはない。
丘の向こうには山があり、山賊もいる。そもそも村に若い男が一人もいないわけでもない。
村の女に手を出せば、それはすぐさま村中に広がり、村の誰もが知るところとなる。
したり顔のアドバイスを押し付けられたり、下卑た当てこすりをされたり。
恋愛の成就か頓挫か、賭のネタにもされかねない。
しかし外からきた女なら別だ。
外からきた女に手を出したところで、うまくやれば誰にも見咎められず、一晩のお楽しみで終わる。それも紳士的に遊んでくれるのならばいいが、生憎この村は、王都のように洗練された女遊びが出来る者はいない。
そもそも。
家に入れろとは言うが、レオンだって年頃の若い男である。
村の女では何かと支障があるが、外からきた女なら面倒はない。それについてはレオンだって同じだ。
それならば。
他の男に手酷く遊ばれる前に、レオンが女を保護してもいいのではないか?
レオンなら、そう酷くはしない。ジャックもいるから、そういったことに長く専念することもない。
女の美しさは、レオンがそう開き直るのに十分だった。
白い指が扉を叩きつけるようにこじ開けられると、全体的に真っ黒な女が立っていた。
真っ黒で長い髪。真っ黒なストール。真っ黒な丈の長いワンピース。真っ黒な靴。
そこに浮かびあがる、幻想的な女の相貌。
白く艷やかな頬。猫のようにツリ目がちの、黒い煌めく大きな瞳。まっすぐで細い、上品な鼻すじ。血の滴るように紅い、そして肉厚なぽってりとした情感溢れる唇。キュッと小さな顎。細い首。
雲の隙間からのぞく、僅かな月の光が、女の滑らかそうな頬をなぞっている。
入念に巻きつけられたストールで、女の身体つきはわからなかったが、女はとても艶めかしく、美しかった。
レオンは食い入るように女を見た。
まるで、魔女のようだと思った。