19 特別な手品
その日も少年は小屋に来た。
「おはよーございまーす!」
ちょうどテーブルに朝食が並んだあたりで、快活な声とともに戸が叩かれた。今朝はいつもより早い。
リナの顔が青ざめる。
テーブルの上でフォークとナイフを握りしめるリナの手。ジャックがそっと手を載せた。
リナの手からフォークとナイフが落ちる。木製のカトラリーと木製のテーブルとがぶつかり合う、からりと軽い、乾いた音がした。
ナタリーが首を傾げる。
「今日はずいぶんと早いのね」
「挨拶でしょう」
レオンが立ち上がる。
「彼の家への制裁が解かれたそうですから」
制裁、の単語にリナはびくりと肩を揺らした。
つながれた手に、ジャックが力をこめた。リナも握り返す。
レオンは扉に手をかけながら、振り返ってリナを見た。
「リナ」
レオンに呼ばれ、リナが顔を上げる。
「挨拶をしなさい」
目を泳がせ、口を開いては閉じるリナ。指先に髪の毛をくるくると巻きつけては、引っ張ることを繰り返す。
レオンは扉の前から動かず、リナを見下ろしていた。その目は厳格で冷たい。
「リナ」
ふたたびレオンがリナを呼ぶ。
「言うべきことがあるだろう」
リナのくちびるが震える。指に巻きつけた髪の毛を、頭皮が痛いほどに、強く引っ張る。
レオンは目をそらさない。
「僕はリナに教えてきたつもりだよ」
レオンが胸に手を当てる。
「真心と感謝と」
リナの目をさぐるようにレオンは顎を引いた。
「敬意と矜持を」
リナのくちびるの震えが止まった。指先に巻いた髪がほどける。
視線も泳がず、まっすぐレオンへとリナの目が向けられた。
「率直でありなさい。誠実でありなさい」
リナの二つの黒い瞳には、レオンの微笑みが映し出されている。
「リナがずっと、前を向いて歩けるように」
「前を?」
リナがたずねれば、レオンは頷いた。
「正しい道がわからなくなり、迷うことがあっても。自分の足で立ち、前を向くことさえできれば、きっとリナを導いてくれるだろう」
「何が導くの? どこへ?」
リナの問いかけにレオンは答えず、小屋の内鍵であるかんぬき棒を横に滑らせた。
「彼は待ちくたびれているんじゃないかな」
リナはつばを飲み込むと立ち上がった。レオンのとなりに並ぶ。
レオンがリナの肩に手を置き、リナの耳元にささやきかける。
「謝罪じゃない。これからリナが口にすることは」
振り返ったリナが見上げれば、レオンは微笑んでいた。
レオンはリナの背を優しく押し出し、半歩下がった。リナは頷いて、扉の外に出た。
リナのつまさきが朝の光に照らされた。
リナが顔を上げると、まぶしい陽光の下、目をまん丸くさせた少年が、ぽかんと口を開けていた。
リナはぎこちない笑顔で「おはよう」と言った。
驚きに固まった少年の顔が、ほぐれていく。喜びいっぱいの笑顔へと。
「リナ!」
「あの、その、私……」
「リナ! リナ、元気だったか? すげぇ久しぶりに顔を見た!」
少年はまごつくリナをさえぎるようにして、興奮のまま言いつのった。
リナの手を取りゆすぶったかと思えば、肩をばんばんと叩く。
「なあ、久しぶりだな! マジでさ! ジャックとは顔を合わせてたけどよ。リナ、あれから全然、村へ遊びにおりちゃこねぇ――」
そこまで言うと、少年ははっとした表情になった。
困惑顔のリナ。その肩に置いた手に、少年は力をこめた。
「あのさ。リナ」
少年は真剣な顔つきでリナを見た。
「俺はリナが」
リナも目をそらさずに少年をまっすぐ見返した。
少年は「あー、その」と言いよどみ、顔を真っ赤に染め上げた。
リナの肩に手を置いたまま、少年はうつむいた。
リナもつられて視線を落とせば、そこには朝の光に照らされた置き石があった。
淡桃色は埃っぽい白色に見えた。血痕はなかった。
ずきりと胸が痛み、体をこわばらせるリナに気がついたのか、そうでないのか。
少年は深く息を吸った。
うつむいたままのリナをじっと見つめ、少年は「俺は」と切り出した。
「リナの手品が好きだ」
「手品……」
リナが顔をあげた。呆然とした様子で少年の言葉を繰り返す。
少年は力強い調子でたずね返した。
「うん。手品だろ?」
リナがこくりと頷く。
少年はニヤリと笑った。
「だからさ。俺はまたリナの手品が見たいんだ。また見せてくれるだろ? 村のやつらにはナイショでさ。俺だけに。とくべつに」
「でも」
ふたたびリナがうつむく。
少年はリナの肩に置いていた手を離し、今度はリナの手を両手ですくい上げた。
リナがびくりとする。
急に巻き起こった風が、ざわりと草木を揺らした。二人の足元にあった小石や砂、落ち葉が二人の頭上まで立ち上った。
少年はぎゅっとリナの手を握った。
「リナの手品はすごい。かっこいい。俺は好きだ」
少年の弾むような明るい声色。リナを見つめるキラキラとしたまなざし。
突風は止み、風は元通りに凪いでいた。
リナはくちびるをかんだ。
「ありがとう。でも、やっぱり。また、私。もしかしたら」
「失敗したっていいぜ。吹き飛ばされたって、べつに」
リナは勢いよく顔を上げた。
少年はリナの見慣れた、意地悪そうな顔つきはしていなかった。リナが知っている少年は、いつもリナをからかってばかりだった。
それだのに。
「俺はリナの手品が好きだから、いいんだ。怖いことなんかねぇよ。俺、リナの手品が妙な感じに言われるのがイヤだったんだ」
「それって……」
リナが息をのんだ。
少年は急きこんで「ちがう、ちがう!」と否定した。
「いや、ちげぇんだって」
慌てたように「ちがう」を連呼する少年に、リナが眉をひそめる。
「ちがうって何が? だって、私の代わりに、」
「だからちげぇよ。恩着せがましいこと、俺に言わせねぇでくれよ。やだよ、そんなん。かっこわりぃ」
少年はリナから手を離すと「くそ。なんだよ、もう」とぼやき、乱雑に頭をかいた。
ひとしきりぶつくさ言うと、少年はギロっとリナを睨みつけた。
「それで? リナは俺に手品、見せてくれんのかよ? どうなんだ?」
ぶっきらぼうで粗暴。癇癪もちで偉そう。見下したような物言い。
リナの知っている少年の姿。
リナは腕を組み、ふんっと鼻を鳴らした。
「もう見せたでしょ」
「えっ」
少年が目を丸くする。
「いつ!」
「さっき」
リナが冷たく言い放つと、少年はリナに食ってかかった。
「さっきっていつだよ!」
「さっきはさっきよ」
リナと少年は、ぎゃいぎゃいとやかましく、言い争いを始めた。
 




