3 未だ見ぬ娘
子守りの女がジャックを胸に抱き、子守唄を口ずさむ。ジャックは瞬く間に眠りについた。
子守唄一つ歌いきる前に、ジャックは深い眠りへといざなわれる。
女の手腕に、レオンはすっかり舌を巻いた。
真夜中、ジャックが起き出して空も割れんばかりに泣きわめくとき。レオンはジャックを抱いて揺らすも、一向に泣き止むことはない。
ミルクか、はたまたオシメか。
あれこれ手を尽くすものの、レオンではさっぱり眠らせることが出来ない。
それだからレオンは、毎晩寝不足だ。
薄い粗末な布団に腰を下ろし、壁に背をつけ、ジャックを横抱きにする。
ズズズ、と壁を背で擦りつつも、引き攣れることなく滑らかにユラユラ揺れ、昼間に子守りの女が歌っていた子守唄を思い浮かべては、ぎこちない旋律で歌う。
すっかり歌いきっても、ジャックの泣き声は落ち着く様子もない。
そうして何度も同じ子守唄を口ずさみ、泣き止まないジャックを抱いて上半身ごとゆらゆらと揺れ。いつの間にやら夜が明けている。
レオンがボンヤリとした目を下に向ければ、ちっとも泣き止まないと思っていたジャックは、レオンの腕の中、スヤスヤと寝息をたてている。
どうやらレオンはジャックを胸に抱いたまま、うたた寝をしていたようだ。うっかりジャックを抱き潰さなかったことに安堵する。
レオンはとても華奢で、男としては頼りないほど貧弱な体つきだ。
村の女たちの平均より、もしかすると体重が軽いくらいであるかもしれない。それでもジャックに覆いかぶさってしまえば、ジャックの小さな鼻と口を塞いでしまうだろう。
ジャックに比ぶれば、随分重い。
赤子の世話がこんなにも手間のかかるものだとは、レオンは知らなかった。
昼間は村の女が、あまりに手際よくジャックを見てくれるから。
レオンが診療の合間にチラとジャックを見ると、いつも機嫌よく笑っているから。
はたから見ているぶんには、子守りはそう難しいものではないように見えるのだ。
それどころか、ニコニコと屈託なく笑うジャックはとても愛らしく、子守りの女は、ゆったりと和やかな時間を過ごしているようにさえ見える。
赤子とそれを優しくあやす女の図。レオンが物心ついた幼少の折から、なぜか憧れていた光景だった。
どこの誰とも知れぬ女と赤子が二人、仲良く微笑む姿を見れば、レオンはいつでも目頭が熱くなる。
胸の奥がぎゅっとつまるような。それでいて叫び出したいような。
居ても立っても居られず、走り出したい気持ちになる。
実のところ、レオンはずっと、赤子を欲していた。
何故かはわからない。
レオンは父親と二人で暮らしていた幼い頃から、ずっとだ。
──本当は、女の赤ん坊がいるはずなのに。
必ずいるはずである赤子がそばにいない。
レオンはそのことに、不安を覚えていた。
だから幼い頃、父親になぜ家には女の赤ん坊がいないのかと尋ねた。
父親は笑って、妹が欲しいのかとレオンに尋ね返した。
「だけど悪いなぁ。お前の母さんは体が弱くて、もう子供を産むことはできなかったんだ」
父親はレオンの頭をグシャリと撫で、寂しそうに空を仰いだ。
レオンが物心つく前に、天に昇ってしまったレオンの母親。
レオンは顔も覚えていないが、心根のしっかりした、芯の強い人だったと父親は言う。
たおやかな仕草と微笑みを絶やさない、優しい女性だった。
近所に住む人々も、レオンにそう教えてくれる。
レオンの垂れ目がちな大きな瞳や小さな鼻と顎。
すらっと長細い手足に、薄っぺらく縦に長い胴体は、母譲りらしい。
母に縁のあった大人達は、レオンに会うたびに「母さんに似てきた」と言う。
レオンはそのたび、産みの母親に思いを馳せる。
しかし母親に妹を産んで欲しかったのか。
自問自答するまでもなく、レオンは答えを知っていた。
──違う。妹じゃない。
レオンは確信していた。
レオンが欲しかったのは。いるべきなのは。
レオンの血をわけた、レオンの娘だ。
妹が欲しかったのかと問われれば、はっきりとうなずかず、レオンは眉を下げた。
困ったように、あいまいに微笑むレオン。
そんなレオンを見た父親は、再婚を決意した。
亡き母親だけを愛していたはずの父親が、突然後妻を紹介してきたとき。
レオンは父親の幸せのためなら、と快く受け入れた。
しかし父親が後妻を妻として丁重に扱いながらも、女として愛せずにいたことをレオンは知らなかった。
父親は後妻にうまく隠しきり、穏やかな愛を注ぐ善き夫を演じられていると信じていた。
しかし後妻は、己に注がれる眼差しに、少しの熱量もないことを感じ取っていた。
父親は夫の義務として、またレオンのため妹を作ってやろうと、後妻を熱心に抱いた。なかなか子はできなかった。
不満を募らせた後妻は、ひっそりベラドンナを集めるようになった。
後妻は、皿を卓に並べる前に、小さな小瓶を胸に押しあて、愛してくれない夫の食事に混ぜるかどうか、逡巡する日々が続いた。
小瓶には後妻が集めた、ブルーベリーのような濃い紫の果実がいくつも入れられていた。
愛を寄こさぬ夫が死の床につくまで、後妻は夫へと悪魔の果実を使わずに、仕舞い込むことが出来た。
しかし艶めく黒に近い紫が小瓶から覗くたび。
それを目に入れるたびに、後妻の心はさいなまれていった。
継母がレオンを見る目。
それは単純な好色による欲情ではなかった。
夫に与えられなかった愛を探し求め、ぽっかりと空いてしまった闇を埋めようと。必死に取り繕う、憐れな女の姿であったことを、レオンはついに知ることがなかった。
もし継母がジャックを出産してすぐ、命を散らさなかったのなら。
十月十日と腹で育て、その腹を痛めて産んだ我が子を胸に抱けたのなら。
明かり以外はボンヤリとぼやけ、まだよく物を捉えぬ幼き目をうっすらとあけ、微笑む吾子。
その愛しき姿を見られたのなら。
乳を探しては小さな鼻息を漏らす、その愛くるしい音を聞いたのなら。
トクトクと小さく早い心音を、その手に感じることが出来たのなら。
そうすれば継母は、ぽっかりと空いた暗闇を、すっかり愛で満たすことが出来たのかもしれない。
しかしそれは叶わぬことで、継母は心にぽっかりと闇を生じたまま、命を落とした。
彼女の哀しみを知る者は、誰もいなかった。
夫がいるにも関わらず、浅ましく愛欲を求める女の醜さを継母に見たレオンは、恋はしないこと。結婚に期待しないことを心に決めていた。
しかしそれでもレオンは、血を分けた自分の女の赤子を諦めることが出来なかった。
キャッキャと愛くるしく笑いかけるジャックと手遊びをしながら、求め続けてきた女の赤子の代わりなど、どこにもいないことを感じていた。
ジャックを愛している。
この身に代えてもジャックを、ただ一人の家族、弟を守る気持ちに嘘はない。
しかしレオンは、やはりここには自分の娘がいるはずだという、確信めいた思いを打ち消すことができない。
◇
「今日はこれで」
子守りの女は、腕に抱いたジャックをクーファンにそっと下ろした。ジャックはスヤスヤと眠っている。
「いつもありがとう。助かるよ」
レオンがにっこりと微笑み、礼を言う。子守りの女は淡く頬を染めてはにかんだ。
女にはレオンとは全く対称的な、ガッチリと男らしい体つきと厳しい顔をした亭主がいる。子供も三人。
上の子はいくつになったろうか。もう家事も手伝える年頃であったように思う。
「レオン先生はこうして言葉にしてくださるから。あたしはジャックと楽しく遊んでいるだけなのに」
女はレオンに礼を言われたことへの喜びと、また一方で謙遜を伝え、そそくさと帰っていった。
レオンの継母とは違う、素朴で可愛らしく、愛すべき妻の姿だと、レオンは思う。
村に生きる女として、これ以上なく理想的だ。
しかしレオンは自分がいずれ、そのような純朴で誠実な女を妻として娶ることに、どうしても想像がつかない。
この寂れた村で、たった一人の医者もどきを続けるとして、ジャックにとっても妻はいた方がいいのではないかと思う。
しかし娶った女がいつか継母のように振る舞うかもしれない。想像するだに、レオンはゲンナリしてしまう。
継母も、父と婚姻を結んだ当初は、レオンの目からも純朴な村娘に見えたのだ。
レオンは自分に女を見る目があるとは思えなかった。
しかしそれでも、レオンは娘が欲しかった。
それもレオンの血を分けた、本当のレオンの娘が。
いつの間にか夜の帳が下り、レオンとジャックの住まうボロ小屋は暗闇に包まれている。
建てつけの悪い、薄くて頼りない小屋の扉が、風でガタガタと揺れた。
隙間風がレオンとジャックの間を通る。
ジャックは寒かったのか、小さな愛らしい眉を、しかめ面らしく中央に寄せる。ツンと上向いた小さな鼻と、ポツンと尖った、赤く瑞々しい上唇。それらがギュッと寄る。
「ふえ……」
まだ目を閉じたままのジャック。
さあこれから、むずかるぞ、と口を開く。
レオンがさっと立ち上がり、クーファンに沈むジャックに手を伸ばしかけた。そのとき。
扉の向こうから、吹き付ける風の音に混じって、これまでレオンの聞いたことのない女の声がした。
その声は、レオンの名を呼んでいた。