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12 魔女の力




 涙と鼻水のまだら模様になったレオンのシャツを、リナは親指と人差し指の二本の指でつまみ上げた。

 それもまるで地面から這い出てきた見たこともない醜悪で、くさくて、グネグネした地下虫をイヤイヤつまむようなやり方で。思いきり眉を寄せ、口をひんまげ。

 そうしてリナは言った。「レオン、きがえてきなよ」と。

 レオンは素直にリナの言葉へ従った。


 鼻水と涙と、それから朝食のときに燻製肉を落としてできた油染み。汚れたシャツを潔く脱いで、レオンはツル編みの洗濯籠に放った。

 ナタリーはシャツ一枚身につけていないレオンの寒々しい背中を心許なさそうに見た。

 そうしてから目をぎゅっとつむり、ナタリーは小さく首を振った。


 リナは目の前で膝をつくナタリーを、寛大な心で待ってやった。

 ついさっきまでリナをぎゅっと抱きしめていたのはレオンだった。今度はナタリー。


 リナはナタリーの背中に小さな腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返した。リナにはナタリーが、今にも泣きだしそうに見えたのだ。

 だからリナはナタリーの背中をぽんぽんと叩いて「だいじょうぶだよ。ナタリー」と言ってあげた。



「リナはナタリーがだいすきだよ」



 するとナタリーの口から変な音が漏れ、鼻からは鼻水が飛び出た。リナはぎゃっとのけぞった。



「ナタリー、きたない!」


「あたしみたいにめったにいない美女なら、なんだってキレイよ」



 ぐいっと目元を手の甲で拭って、ナタリーがうそぶく。それから反対の手がぴんと伸ばされた。

 ナタリーはちらりと目をやることなく、手を振り回してあたりを探った。そして指先に触れた布を掴むと、忙しない手つきで赤くなった鼻先に当てた。

 ナタリーが思い切り鼻をかんだ布は、ナタリーのすぐそばで突っ立っていたジャックの上着。その裾だった。



「ほらね。キレイでしょ」



 ナタリーが手を離すと、引っ張られた裾はびよんと伸びて下がり、先っぽは鼻水でテカテカしていた。

 おそるおそるといった様子で、ジャックが上着の裾をつまみ上げる。



「うへぇ」



 ジャックは嫌そうに顔を歪めた。



「それも洗濯籠に入れてきちゃいなさい」



 ジャックに横目をやり、ナタリーがレオンの後ろ姿を指差した。レオンは洗濯済みの衣服が畳まれた籠に手を入れ、ガサゴソやっている。



「うん」



 ジャックは頷き、がばりと上着を脱いだ。上着を床に引きずり、レオンの元へとことこ歩いていく。

 引きずられた裾が床に落ちていたホコリやゴミクズを集め、ふらふらとまっすぐではない線を印した。窓から差し込む白い光は、宙を舞うホコリを幻想的に描き出す。



「リナはお外で遊ぶのが好きよね」



 ナタリーの声ではっと意識を呼び戻されたリナは、光を浴びてきらきら輝くホコリから名残惜しそうに視線を引きはがした。

 ナタリーは探るようにリナの目を覗き込んでいた。

 眉尻が下がりきり、ナタリーの顔つきといったら情けなくって、何やらリナに申し訳なさげだ。


 リナは「うん」と答えたが、どぎまぎしてナタリーから目をそらした。



「でもおそとで」

 リナは両手をぐねぐねとこねくり回して言った。

「おこったり、ないたり、おおわらいしたらダメだって」

 リナが顔を上げる。

「ナタリー、そういったでしょ」



 リナの目は不安に揺れていた。ナタリーは頷いた。



「リナが怒ったり泣いたり、大笑いしたり。心が突然、大きく変わったり動いたりすると、昨日みたいに扉が壊れたりする。あるいは稲妻が。もしくは竜巻が」



 ひっとリナが息をのみ、ナタリーは慌ててリナの縮こまった体を抱きしめた。



「大丈夫よ。リナにはあたしがいるんだから」



 ナタリーはリナの頭を撫でて落ち着かせた。

 深く息を吸い込んだリナと目が合えば、ナタリーはニヤリと口の端をつりあげて不敵に笑った。リナもへにゃりと笑い返した。



「だけど、あたしがいないとき」

 ナタリーの目がひたりとリナに据えられ、リナの身が引き締まる。

「リナの感情が大きく揺れて、リナの血が湧き立って。そうしてリナの力が暴走してしまえば、止めることのできる人は、誰もいない」



 リナはもう泣かなかった。

 ただ、リナにはナタリーの言うことがよくわからなかったから、尋ねただけだ。なぜリナだけなのかと。ジャックはそうではないのかと。


 力とは何かと。


 ナタリーはキョロキョロとあたりを見回して、レオンの顔を見た。

 新しいシャツとベストを身に着けたレオン。ナタリーと目が合った途端、レオンは顔をしかめた。

 ナタリーはレオンの渋面を横目で見ながらリナに言った。



「リナの血に宿るのは、魔法」


「まほう?」



 リナが首を傾げれば、ナタリーは頷いた。



「ええ。魔女の力よ」



 力強く言い切るナタリーから、レオンは顔ごと目をそらした。

 レオンから顔を背けられたリナは、ナタリーの上着の裾を握った。不安げにリナの黒い瞳が揺れ、ナタリーに縋った。



「このチカラは、わるいチカラなの?」



 ナタリーはリナと視線を合わせると、にっこりと笑った。



「とても素敵な力よ! レオンとあたしの力!」


「そのレオンは僕じゃないけど」

 レオンが、ナタリーの隣りに並んでリナの頭を撫でた。

「リナの力は」

 ほんの少しの間、言いよどみ、レオンは言った。

「素敵な力だと、僕も思うよ」



 ナタリーはレオンを見下ろし、ふふん、と自慢げに口の端を上げた。



「オレも!」

 駆け寄ってきたジャックが、ナタリーに飛びつく。

「リナとおなじチカラがほしい!」



 ジャックの勢いに押されて尻餅をついたナタリーは、「それは無理よ」とそっけなく言い放った。

 縋りつくジャックをべりっと引きはがしてやれば、ジャックはほとんどベソをかいていた。




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