3 祝福と憎悪
レオンはのけぞった背を、重力に抵抗することなく、椅子にもたれかけた。ぎぎっという音鳴りと、レオンの吐き出す息。
その細く長い溜息が、ハーブ水を手にしたナタリーの耳にとまった。
「どうしたの?」
コトリ。ハーブ水入りのピッチャーを、ナタリーがダイニングテーブルに置く。
レオンは顔をすっぽりと覆っていた両手をおろした。そして気づかわし気にこちらを伺うナタリーに、視線だけ投げる。
ピッチャーには、子供たちと一緒に庭で摘んだ食用ラベンダーとローズマリー、そしてミント。そこにナタリーが魔法で、たっぷりと注いだ水。
ドライハーブにと、ひと手間かけたハーブティーもいいけれど、摘んですぐに水出しするハーブ水を、子供たちは好む。
さっぱりとしてぐいぐい飲めるし、香りもフレッシュ。
なにより、自分の手で摘み、作ったという成果が、目に見えてすぐわかる満足感となるのだろう。
子供たちが大量に摘んだハーブは、ドライハーブにしたり、蒸留してフローラルウォーターにしたりする。そうして出来上がったドライハーブは、料理に用いたり、フローラルウォーターはナタリーとリナの化粧水となり。
つまり。ナタリーと子供たちは、仲良くやってる。毎日の暮らしを楽しんでいる。
貴族令嬢だったというナタリーだが、驚くほど村の生活になじみ、その生い立ちを考えれば不自由だろうに、慎ましやかな暮らしぶりに文句ひとつ、口にしない。
いつも朗らかで、心のままに笑ったり怒ったり。そして本当にときどき、涙する。その姿を、隠すことなく、レオンに見せてくれるようになった。
そして子供たち。
レオンが誰とも血の繋がっていないこと。実の父親ではないことを、二人には最初から伝えている。そしてナタリーと夫婦ではないことも。
リナはナタリーの娘だけれど、ジャックはレオンの義理の弟で、ナタリーの息子ではない。
そんな複雑な家庭環境の中で、レオンとナタリーを慕い、目を輝かせ、全身で喜びと愛を伝えてくれる。
だが。
「あの子たちを、もっと自由にさせてやれたらと――」
「昼間の水浴びのことね」
レオンの言わんとすることを察して、ナタリーが頷く。
次の言葉を口にするのに、レオンはほんのわずかばかり躊躇った。だが、くちびるを引き結んですぐ、口を開く。
「この平和な村で、裸で駆け回ることくらい、目くじらを立てたくはないんです」
レオンのこの訴えが、ナタリーの罪悪感を煽っていることは、レオンもわかっている。だけどそれ以上に、レオンは許せないのだ。
吐き気がこみあげるほどの嫌悪は、年々増すばかりだ。
「好きなところへ好きなように。興味の惹かれるまま、思い切り走って、首を突っ込んで。村の人に歓迎されたり、叱られたり。そうしてこの村で村の一員となり、のびのびと過ごさせてやりたい。この村で育った者として――」
「レオンの言い分も理解できる。ここで過ごして、村人達の生活も目の当たりにしてきたわ。ジャックはそうすべきだと思う。だけどリナは、あたしとレオンハルトの子なの」
そうだ。リナはレオンの子じゃない。レオンハルトの子だ。
ナタリーがレオンの元へ近寄る。
レオンが膝の上で、軽く握っていたこぶし。ナタリーは手を重ねた。そして視線を合わせる。
「この村で育った人間ではなく、権利と義務と不自由を架せられ、常に挙動を人目に晒される。レオンハルトとあたしは、そういった類の人間で、リナはそんな二人から生まれた子なのよ」
言い含めるような様子を見せるナタリーに、レオンは冷たく目を細めた。
「それは、あの子が百五十年前に生まれていたらでしょう。実際は違う」
「違うことなんてない。あの子には青い血が流れている」
レオンの言葉をきっぱりと否定するナタリーから、レオンは目をそらした。
青い血。
あの憎らしい男。レオンハルトもまた、青い血を憎悪していた。レオンと同じように。
いや、同じじゃない。
レオンが青い血を憎むのは、レオンハルトのせいなのだから。
「あの男が。あの男さえ、あなたにそんな力を残さなければ!」
憤りを隠さないレオンを、ナタリーは悲しそうに見つめる。悲しみを湛えた、黒い瞳。顰められた細い眉。力なく微笑む口もと。
――そんな顔をさせたいんじゃない。
そうじゃない。レオンは頭を掻きむしりたくなった。
うつむいて唇をかみしめるレオンの背に、ナタリーは両腕を回した。
レオンの頭頂部に、ナタリーの柔らかな温もりが触れる。鼻先にはハーブの香り。そして甘い汗の匂い。
「レオンハルトが残してくれた力は、あたしにとって祝福よ。だけど、他で使うことはしない。これは、あたし一人で抱えていけばいいこと」
少し考えるように首を傾げてから、ナタリーは訂正した。
「リナにも、少しだけ背負ってもらわなくちゃいけないけれど」
「少しだけというには、荷が重すぎる」
ナタリーの胸の中でぼやくレオンの声は、くぐもっている。
囲われた柔らかな腕から抜け出そうともせず、抱きしめ返すこともせず。レオンは膝の上にこぶしをのせ、ナタリーにされるがまま。
「だってしかたないわ。レオンハルトが祝福を授けてくれなければ、リナはこの世に生まれてこられなかったのだし――」
レオンの頭の上で、ナタリーの笑う気配がした。
「それにあたしも、こうしてレオンと会うこともなかった」
そうだ。
レオンハルトがナタリーに、この忌々しい力を譲与しなければ、ナタリーはここにいない。レオンがこうして、ナタリーの腕に抱かれることはなかった。
それがいっそう、レオンの憎悪を燃やすのだ。
すべてはレオンハルトの采配のもとに。
そんなことを、なぜレオンが有難がらなくてはならないのか。