2 悪魔
妊娠出産にまつわる、大変差別的な表現があります。
女性を徹底的に否定する宗教観、倫理観に基づく表現があります。
残酷な表現があります。
上記に懸念がある方はご注意願います。
ジャックは村の女達の腕に代わる代わる抱かれて育った。
生まれてすぐハーレムを築いた赤子に、レオンは一抹の不安を覚えることがあった。
「気のせいかな。若い女性に抱かれてると静かなんだよな……」
加えて言うなら、見目麗しい女、あるいは豊満な胸の持ち主であるときに限って、だ。ジャックが、もみじのような小さな愛らしい手のひらで、女の衣類を精一杯握りしめるのは。
今まさに、可憐な少女(とはいえ彼女もお産を確かに経験した一人の母親である)の襟ぐりをしっかと握りしめているジャック。レオンは胡乱な目を向けた。
しかしレオンは、静かに頭を振る。昨日診察した患者のカルテへ向き直った。
そうしてレオンは誰に言うこともなく、ひっそり赤子への疑いを一人胸にしまったのである。
だって言葉にすれば、もしかすると赤子にすら嫉妬する、情けなく恥ずかしい男だと思われてしまう。
赤子の世話などしたこともないレオンにとって、ジャックの面倒を善意で申し出てくれる村の女たちには、感謝してもし足りない。
毎日朝から晩まで、代わる代わるジャックの元へ、女たちはやってきてくれる。
そんな女達に、あまりみっともない振る舞いは見せられない。
彼女たちはレオンを寂れた村のたった一人の医者として。尊敬の意を表し、感謝を捧げてくれている。
だからこそ、ジャックの面倒を厭わず見てくれているのだと、レオンは思う。
夜泣きはレオンが一人耐えることとなる。だがそれだって、ジャックが生まれて三日ばかりは、丸一日付きっ切りで、村の家々がジャックを交代で預かってくれた。
ジャックを産み落として亡くなった継母。その葬儀を執り行う必要があったのだ。
加えて、多少医療の心得はあるとしても、まだ二十歳にも届かないレオン。突然赤子の世話をするには、心構えの何一つなかった。
まさか継母がジャックを産み落として数時間も経たぬうちに、その命を失うとは。レオンは想像もしていなかった。
安全なお産のためにレオンが立ち会ったはずだった。それなのになぜ。
目の前で消えていった命と、目の前で新たに産み落とされた命。
二つの命の前で、レオンは己の無力さを嘆くことで精いっぱいだった。
しかしレオンの力不足だと責められないことを、子を産んだことのある村の女たちはよく知っていた。
お産は神から命を授かる神聖な儀式なのだ。
この儀式に耐えうるかどうかは、神のみぞ知ること。
儀式が無事成功し、母子ともに元気でいられるかどうかは、母体や赤子の瑕疵の有無に限るものではない。そしてまた当然、お産に立ち会った者に、責を負うことでもない。
なぜならお産は神との儀式であるのだから。
神の意志そのものの顕われであるから、人智の及ばぬものなのだ。女たちはその身によく知ることだった。
例外として、悪魔にそそのかされた女は、その罪故に、お産を成すことができないとされている。悪魔にそそのかされた女は、その体に赤子を宿すことが出来ないという。
赤子を宿したのちに悪魔にそそのかされた女。その生む子は、悪魔そのものだという。
だからこそ他のお産は全て神の意志によるものであり、母も子も悪魔の子が生まれない限り、その責を問われない。
無学な村の女たちの神への信仰。
一方、王都の学者たちも、お産については男が学ぶものではないと見なしていた。医療とお産は別であると。
やはりそこでも、お産は医療の現場ではない。赤子を神から手渡される、儀式としての色合いが強い。従って、医者ではなく神官、教会がそれらを司っていた。
そのため継母が強く望んだレオンの立ち合いは当初、保守的な村人の一部からは、反対の声も上がっていた。
神聖なる神の儀式に、常にはない男がその場に立つこと。経産婦である、年かさの女たちが忌避感を唱えたのだ。
「でも、隣村の薬師の旦那さんとこ。旦那さんが手を握ってくれてたから頑張れたんだって。あたいは、薬師の奥さんからそう聞いた」
継母に請われて、レオンがお産に立ち会うと承諾したとき。
レオンは立ち合いを告げ、村の女たちに協力を求めた。当然ながら、色よい反応は得られなかった。
レオン自身、積極的に立ち合いたかったわけではない。正直なところ、遠慮したい気持ちもあった。
とはいえ、お産と医療が別だとは、レオンは考えていない。
お産はもちろん、病気などではなく、赤子に至っては神からの輝かしいギフトではある。
しかしお産は何らかの事情で必要以上の出血を伴うこともある。不慣れな者が産後処置をすることで、熱が出ることも知っている。
これらは神が去ったあとを狙って、悪魔に入り込まれ、儀式が失敗したためだと言われている。だがレオンは、それは疑わしいと思っていた。
経験を積んだ産婆と、そうでない者がつくのとでは、お産の成功率がだいぶ変わる。
そうなると、経験の浅い者の周囲には悪魔を退ける能力が低く、ともすれば悪魔を身にまとっているということになる。
経験を積めば悪魔を退けるようになるなど、神官でもなく神学を学ばない者にあるはずがない。
そもそも神官たちは、女にそのような能力があるとは決して認めまい。
女は穢れの象徴であって、悪魔を呼び寄せることはあっても、その逆に退けるなどとありえない。というのが、教会の一貫する立場だ。
また経験の浅い者が、経験の浅さ故に悪魔を己の身に寄せるなど。そんなこともあり得ない。
産婆となる女たちは、皆それぞれ、自身のお産を経験し、お産という神との儀式を成功させた者たちなのだ。
悪魔の存在がお産の是非を決めるというのなら、悪魔を身に寄せるような人物に、神が子を授けるはずがない。
とはいえ、悪魔にそそのかされた女だから子を宿せないというのも、レオンは信じていない。
そんなことを公言してしまえば、不信心として教会で裁かれてしまうから、決して口にはしないが。
子を身に宿さず、離縁された女たちは、悪魔憑きだと忌避される。時には悪魔遣いだと裁かれうる。
レオンは密かな怒りを抱いていた。
レオンは神を信じている。だが、教会の示す悪魔の在り様は、決して信じていなかった。
教会が断罪する悪魔は、いつも社会的な弱者だ。そして教会の教えは、弱者を痛めつける根拠となるべく在る。
青い血を尊ぶ教会など、レオンの信じる神を祀っていない。
それにお産の最中の予期せぬ出血や産後の容態悪化については、医療の出番ではないかとレオンは考えていた。
そのためにも、人体への予備知識が多少なりともあるレオンが立ち会うことは、理にかなっている。
しかし。
「奥さん、お産は痛くて痛くて、死んじゃうかと思ったんだって。もう死んだほうが楽だって。だけど薬師の旦那さんがいっしょうけんめい奥さんの手を握って、腰をさすって、がんばれ、がんばれって励ましてくれたから頑張れたって」
お産を経験するどころか、初潮もまだ迎えていないだろう少女。村人たちに向かって、得意げに弁をふるう。
「奥さん、不安だったんだってさ。生むまで赤子を腹に抱えてた間は、よく気分も悪くなるし。腹がでかくなりゃ、寝転ぶのも一苦労。それが苦しくてたまらなくて、せっかくの吾子を授かったのに、苦しいだなんて思う弱い自分が、子を無事に生めるもんかって」
てらてらと光る頬を赤く染め。少女はまるで、その目で見てきたかのように語る。
「だから奥さん、ちゃんと赤子を生みきる前に諦めちまうかもしれないから、ちゃんと見張ってておくれって。旦那さんに頼んだんだ。そうしたら旦那さん、村の衆の反対なんざ気にするもんか。俺はお前の傍にいる、一緒に頑張ろうって、奥さんの手を握ってやったんだってさ」
お産を経験したことのない村の若い女たちは、頼りがいのある旦那の言葉に。ほうっと吐息を漏らした。
一方でお産を経験した女たちは顔を見合わせて、何やら苦笑いを浮かべている。
少女は周囲をぐるりと見まわすと、瞼を閉じて、ふと一息ついた。
それから大きな目玉をかっ開いたかと思うと、ニヤリと片方の口の端をあげた。
生意気な悪戯娘に留まらず、どこかあやしく人心を惑わす妖精のような顔を見せる少女に、ぎょっとする女たち。
少女は右の五本の指全部、指と指のあいだを限界まで広げる。それから女たちに見せつけるように、ずいっと顔の前に突き出した。
「そんでさ、奥さん、そらもう頑張って赤んぼ生んだんだ。なんたって、旦那さんの激を受けたもんだからって、気合が入ったなんてもんじゃない。奥さん、優しい旦那さんの手をぎゅうっと握って踏ん張ったんだ」
少女がくつくつと肩を震わせる。
若い女たちは手に汗を握って少女の言葉を待つ。経産婦の一人が、まさか、と顔を青くする。
「そうさ、奥さん、赤んぼ捻り出すのに、まるで悪魔が乗り移ったがごとく馬鹿力で、握りしめた旦那さんの指、粉砕しちまったのさ!」
悪魔、という言葉に、村の女たちが悲鳴をあげた。
偶然話を聞いていた長老は、慌てて少女の口をふさいだ。
事実、男を害するような女は悪魔と呼ばれて当然であった。
教会の示すことによると、男に従順でない女のことを、また悪魔と呼ぶ。
レオンは嘆息した。
悪魔なんかいない。出産の間際に旦那がお産に挑む女房の手なんか握っていたら、折られるのは当然だ。
そんなことは、お産をした女たちなら誰だって知っている。
お産がどれだけ体力を要するのか。
その意味を知っているのは、お産をしたことのある女たちだけだ。
もちろん、一人ひとりお産の在り方は違う。
それでもお産は命がけなのだ。
命がけで赤子を産み落とす。そのとき、どれだけ踏ん張るのか。どれだけの力で手を握りしめるのか。お産を終えた後の手のひらに赤く刻み込まれ、血の滲んだ痕。女たちの爪は誰ひとり伸びちゃいない。
だがそれを知っているのは女だけだ。女だけなのだ。
レオンは少女を叱りつける長老の耳に、そっと囁いた。
「男の指を折る女が悪魔なら、子を産む女を責める男を何と呼ぶのでしょう」
本当に、悪魔なんていないのだ。
少女はそれを皆に知らせたかっただけなのだ。
悪魔なんていないから、レオンが出産に立ち会うことに何の問題はないと、少女は言いたかったに違いない。
そして少女の亡くなった母親が、悪魔を産み落とした悪魔つきなどではなかったのだと。そう少女は訴えたかったのだ。
少女の母親は、ただ生れ落ちるのに早すぎる赤子を腹に抱えただけに過ぎず、その赤子は悪魔ではなかった。
ただ、生まれるのに早すぎただけ。
そしてレオンは、悪魔などいないと知っているから、継母のお産に立ち合いたくない。
いきんだ継母に指を折られたくないからじゃない。
もちろん進んで指を折られたいなどとは思わないし、立ち会ったとして、継母の手は決して握らないと決意してはいるが。
悪魔が本当にいるのなら、継母はなぜ子を宿せたのだろう。
レオンは思い出す。王都から戻り、継母の膨らんだ腹を見て、亡き父を思い、唇をかみしめたこと。
それから、父が病に倒れる以前からずっと、レオンに向られていた、ねっとりと気色の悪い継母の目。未だにレオンを舐めまわしているのだ。
継母の腹に宿る赤子が、レオンの血を引いていないことは、レオン自身がよくわかっている。
赤子に罪はない。
しかし継母自身の中に、果たして悪魔はいないのか……彼女は悪魔にそそのかされただけなのだろうか。
勉学にばかり勤しみ、女と付き合うこともしないレオン。継母は人情の機微に疎いと侮っているようだが、レオンは決して鈍感ではない。
レオンは人一倍、人の恋愛事に過敏なのだ。それだから、レオンは女を囲わなかった。
寂れた村でたった一人の医者もどき。
どれほど気になる娘ができようとも、軽々しく恋愛など、できようはずもない。
レオンは自分の立ち位置をよくわかっている。
それだから、そんなレオンの在り様を面白がり、継子を誘惑に興じる継母の卑しさに。父の死を軽視する継母の情の薄さに。レオンはやり切れなさを感じていたのだ。
それでも生まれてくる子に罪はない。命がけで赤子を産み落とそうとする継母もまた、レオンが助けるべき相手なことに、違いはない。
そうしてレオンは継母の出産に立ち会い、赤子を取り上げ。そして血だまりの中、体中から血の抜けた、真っ青な顔で、静かに息を引き取る継母を見たのである。
継母は前置胎盤を想像しています。
レオンがどれほど手を尽くしたとしても、この世界の医療知識、技術では、前もってそれを予知することは難しく、また大量出血後の対応もほぼ不可能でした。