2 平和な村の平和な家族(2)
「なっ! なんだい! いったいなにが起こったんだい!」
患者が叫ぶが早いか。レオンは患者の視線をなるべく遮るようにして、斜面下へ駆けた。
「先生! レオン先生! 子供たちは! リナにジャック、ナタリーは無事なのかいっ?」
坂の上。母屋から、レオンの家族を心配する声が、レオンの背を追ってくる。
そうだ。家族だ。
レオンの血は、誰とも繋がってはいないけれど。
レオンは砂埃が鎮まるのを見計らって、母屋を見上げた。そして落ち着かない様子でこちらを伺う患者へと、手を振る。
「ご心配おかけしてすみません! こちらは問題ありません! 子供たちが派手にやり合っただけのようです!」
ウソだ。
あたり一面の砂埃。ナタリーが慌てて修復したが、その場に到着したばかりのレオンの目には、サークル状に抉れた大地が映っていた。
ナタリーとリナ、そしてジャック。三人を残して、ぐるりと一周。きれいに抉れていた。
「そ、そうかい……?」
怪訝そうな患者の声色。
それもそうだろう。
幼い子供たちが喧嘩したところで、これほどの砂ぼこりは立たない。第一、あの轟音はなんだったのだ、という疑問が残る。
だが。
「はい。近頃やんちゃが過ぎましてね。お騒がせいたしました」
これ以上、つっこんでくれるな。
顔一面に張りつけられた、レオンの笑顔。
視力の悪い患者に、レオンの表情が見えているかはわからない。だけど、にっこり。
「い、いや。無事ならいいんだよ、無事なら……」
患者は圧された。
ぎこちない笑顔を返す患者に、レオンは胸をなでおろす。ふうっと息を漏らすと、レオンは再び三人へ振り返った。
「三人とも。あとでお説教です」
レオンは笑っていた。先ほど患者に見せたのと同じように。
感情の伺わせない、見る者をぞっとさせる笑顔。笑っているのに、笑っていない。
「は、はぁい……」
しおらしくナタリーがうなずく。
「リナ、わるくないもんっ!」
「なんでオレも……!」
ぷいっと顔を背けるリナに、またもやウルウルと瞳を揺らすジャック。
レオンは溜息をついた。長々と疲れきったように。眉間にはシワ。
「ナタリー、君ね……」
「ごめんなさい。うっかりしていたわ」
グシャリと前髪をつかむレオンに、ナタリーは顔の前、ぱんっと両手を合わせた。申し訳なさそうに、上目遣いでレオンを伺っている。
レオンは喉まで出かけていた文句を飲み込んだ。
本当は、もうひとつふたつ。言いたいことがあった。
でもそれは、あとでいい。
「……まあ、誰もケガをしなくてよかった。次はないよう、お互いに気をつけましょう」
「ええ」
ナタリーがはにかむ。
その顔が、あまりに。
レオンは目をそらして、口元に手を当てた。
レオンの視線の先には、口をへの字に曲げたリナ。それから瞳いっぱいに涙をためこんで、頭を振れば、今にも涙がこぼれ落ちそうなジャック。
腰に手を当て、レオンはまたもや息を漏らした。今度は短く。眉尻を下げて。やれやれ、と。
「リナ。悪いことをしたときは?」
「……わるいこと、してないもん……」
口をとがらせてはいるが、リナの語調は弱い。
人差し指と親指をイジイジとつつき合わせて、リナはちらり、とジャックを見た。ジャックの真っ赤な目と鼻。
リナはぐっとツバを飲み込んで、レオンを見上げた。不安そうに怯えている。
レオンは膝を折り、リナと視線を合わせた。
「リナ。力のことは、リナのせいじゃない。僕もナタリーも、怒っていないよ」
「ほんとう……?」
リナはぐるりと辺りを見回した。
乾いてひび割れた地面。白っぽい砂。等間隔に配された、小径中央の踏み石。なだらかな斜面とを隔てる、不揃いの縁石。斜面一帯を覆いつくす草。その緑に黄色。揺れる小花。
なにもかもが元通りだ。
「本当だよ。だけどね、リナ。リナは悪いこともしてしまった。それはわかるかい?」
「……チカラじゃなくて?」
「うん。力じゃない」
リナはもう一度、ジャックを見た。ジャックの涙はもう、ひっこんでいる。
リナがホッと胸をなでおろす。そしてジャックへと一歩、足を踏み出した。
「ジャック。ごめんなさい」
「……いいよ」
ジャックがうなずく。弱弱しい声だったが、涙声ではない。
リナはジャックの顔を覗き込む。
「まってってジャック、いったのに。またなかった。ごめんなさい」
「いいよ」
考えることなく、ジャックはすぐさまリナを許した。
「おみず、ぷるぷるして、ジャックのおめめ、いたくしちゃった。ごめんなさい」
リナの謝罪に、ジャックはすこしばかり首をかしげた。
「いいよ」
けれどやはり、ジャックはリナを許した。
「ジャックのこと、まぬけっていった。ごめんなさい」
それまでの勢いのまま、リナは弾むように言った。
しかしジャックが顔をしかめる。
すると、リナの大きな黒い瞳が潤み始めた。リナがうつむく。
これに慌てたジャック。
今度はジャックが、リナの顔を下から覗き込む。
「……もういわないでね」
ジャックとリナの目が合い、二人は笑い合う。
「うん、いわない」
リナは笑顔でうなずいた。
二人の手がつながれるのを見守ると、レオンは立ち上がり、ナタリーへと振り返った。ナタリーは肩をすくめる。それから音を出さず、「ありがとう」と、ゆっくり口を動かした。
レオンは目をぐるりと回し、最後に小さく首を傾げた。どういたしまして、を伝えるために。
ナタリーがまた、無邪気に笑う。
レオンは慌てて視線を子供たちに向けた。
咳払いをして、注意を引く。ジャックもリナも、ぱっとレオンを振り仰いだ。
「それからジャック」
レオンは腰をかがめ、目線をジャックに合わせた。
「なに?」
ジャックの不満そうな顔に、レオンは笑いそうになった。
確かにジャックからすれば、どうして自分まで叱られるのか、納得できないだろう。
レオンとしても、それほど説教をしなければ、と思ったわけじゃない。だけど。
「ジャックがリナを止めようとしたのは、知ってるよ。えらかったね」
レオンはジャックの頭をなでた。
「……うん」
ジャックは首をかしげる。
褒められた。お説教はないのかな? そんなジャックの気持ちが見えるようだ。
「だけどね」
レオンがくぎを刺す。
ジャックの顔が露骨にゆがむ。そのときリナがジャックの前に進み出た。
レオンからジャックを守るように、その小さな両腕をいっぱいに広げて。小さな体をぐるりと巻かれた、布切れ一枚。
「リナがわるいの! ジャックはわるくない!」
力強くレオンを睨みつけるリナ。
そのうしろでジャックが、レオンとリナとを見比べている。
「うん。そうだね」
レオンは微笑んだ。
「リナが飛び出なければ、ジャックも小屋の外に出なかっただろう」
「そうだよ! だからジャック、わるいことしてない!」
真っ赤な顔でジャックを守ろうとするリナに、レオンは頷く。
「悪いこと、とは違うかなぁ。ジャックにはお願いしたいんだ」
「おねがい?」
リナが目を丸くする。
少しだけ下がったリナの腕。ジャックはその手を握った。そしてとなりに並ぶ。
ジャックとリナ、二人は目を合わせると、レオンを見た。
レオンはしゃがみこんだ。
「うん。お願いだ」
レオンは後ろへ振り返り、ナタリーを見た。ナタリーもまた、子供たち同様に首を傾げている。
苦笑したレオンは、再び子供たちに向き直る。
「ジャックがリナを止めようとしてくれたこと。その気持ちはとても嬉しい。だけど、ジャックも一緒になって飛び出てしまうと、どうだろう。ジャックもハダカなんだ。それに――」
ナタリーも、と口にするのは気が引けた。
尻すぼみになり、レオンは口ごもる。
そんなレオンの様子は気にせず、子供たちは目を見合わせた。
「ハダカんぼだったね」とか「うん」とか。確かめ合いながら。だけど、レオンの言いたいことはわからなくて、二人はレオンを見る。
「飛び出す前にね。ジャックには、ナタリーを待っていてほしかったんだ」
レオンがそう言うと、二人は頷いた。
「三人で水浴びをしていたね。だからみんな、終わったら服を着なくちゃいけない。ハダカで飛び出ないでほしい。まずはそこだ。それからナタリーの言うことを聞いてほしい。これは僕からのお願い」
ジャックとリナ。
体も言葉も行動も。健やかに成長し、それぞれの感情や意志も育ち。様々なことに興味を示し、好奇心の赴くまま、二人とも元気いっぱい。とても幸せなことだ。
二人の幼い子供の世話。
目が行き届かないことも増えてくる。思いもよらないことだったり。はっと気がついた時には、どこにいるのかわからない。
可愛い子供たち。
だからこそ、失いたくない。
そして、ナタリーの負担についても。
毎日、朝から晩まで、体力オバケの子供たちに付き合うのは、ナタリーだ。ひとときだって目が離せない。
きっと疲れているだろう。
「わかった。ナタリーのいうこと、ちゃんときく」
「リナも!」
はいはい! と手を挙げる二人の頭を、レオンは撫でた。子供たちが嬉しそうに笑い声をあげる。
「でもさ。レオン、あとでおせっきょうっていったのに」
ジャックが首をかしげる。
「うん。レオン、あとでっていってた」
リナがうなずく。
子供たちの言葉に、レオンはハッとした。
坂の上を見上げると、母屋の入り口に座り込み、舟を漕いでいる患者の姿があった。