1 平和な村の平和な家族(1)
「リナ! まってよ!」
どこか困ったような様子で、男の子が声を上げた。
「ヤーダよーだ! ここまでおいで~」
悪びれない様子で、女の子は笑った。
「ダメだったら! ナタリーがよんでるよ!」
「きこえなーい!」
風呂小屋から、布切れ一枚を体に巻き、転げ出てきた二人の子供。
きゃっきゃと歓声をあげ、今しがた水浴びしたばかりだというのに、砂埃をまき散らしながら、母屋とは反対方向へ駆けている。
リナと呼ばれた女の子が、肩までの黒髪をぷるぷると振る。その様は、水浴びしたばかりの犬のよう。
雫があちこちに飛び散り、あとから駆けてきた赤毛の男の子の顔に降りかかった。
「ぎゃっ! おめめに入った!」
男の子は立ち止まり、ちいさな手で目を覆った。
「あはは! ジャックのまぬけー!」
リナが男の子を指さし、笑う。
「ちがうもん! リナのせいだもん!」
ジャックと呼ばれた男の子が、片方の手で目をぐしぐしと拭い、もう片方の手を振り上げる。
ジャックの体に巻き付けた布切れが、ハラリと離れた。幼くぽっこりと前に突き出た腹部や、エクボのある小さな臀部が露わになった。
ジャックは慌てて布切れを拾い上げる。
地に落ちた布切れは、砂埃にまみれていた。ジャックのふっくらとした手のひらに、ざらっと不快な感触を与える。
「やーい! ジャックのハダカんぼー!」
調子づいたリナが野次を重ねる。
「う、うわぁああああああああん!」
とうとうジャックは泣き出した。
そこでようやく着替えを終え、追いついたナタリーが、ジャックをさっと抱きかかえた。
屋外での騒ぎに、なんだなんだと扉から顔を覗かせるのは、診察中であるはずの患者。ジャックが赤子の頃、面倒を見てくれた村の女衆、その一人。
中年女の肩越しには、額に手を当て、ため息をつくレオンの、疲れたような顔が見えた。
ジャックとリナ。二人の年はいかほどか。四つか、五つあたりだろうか。
体はジャックのほうが、少しばかり大きい。
「こら! リナ! ふざけてばかりいるんだったら、もう水浴びはさせないわよ!」
ナタリーが子供たちを叱りつける。
じりじりと焦げつくような日差し。
白い太陽は高く、雲一つない空は抜けるように青い。
吸い込む空気は熱気に満ち、乾いた風が頬を掠め、濡れた髪を浚っていく。
暑い夏の日の水浴び。
それは幼い子供たちにとって、何よりの楽しみで、贅沢だった。
「いやぁ、いいねぇ。気持ちよさそうだねぇ。レオン先生のところでは、こうも手軽に水浴びができるのかい?」
額の汗を拭い、はぁっと羨ましげに吐息を漏らす患者に、レオンは苦笑いした。
「いいえ。そんなことは。手の空いているときに。水汲みが増えますからね。たまの贅沢で水浴びさせるんです。皆さんと同じですよ」
ナタリーの魔法で水を生じさせているなど知れたら、どれほどの混乱をきたすだろう。
きっと、この寂れた村の中だけでは、済まないことになる。
レオンもナタリーも、魔法の存在を明かしていない。
患者は妬ましそうに口を尖らせた。
「同じなもんかい。うちじゃあ、風呂桶なんてエラいもんは、構えちゃいないよ」
「それはまぁ、ええ……。作らされましたからね」
レオンがチラリとナタリーに目をやると、ナタリーはリナを叱りながらも、レオンが余計な言葉を発していないか睨みつけていた。
器用なことだ。魔女とは幾つも耳を持つのだろうか。
声を張り上げたわけでもないレオンの声など、普通なら、あそこまで届くわけでもないだろうに。
ナタリー達は、診療室でもある母屋、それから風呂小屋からも小屋二軒分ほど離れた、坂の下にいる。
レオンの視線の先にいるナタリーの姿を認めた患者は、「ああ」と頷いた。
目をつむって眉間にシワを寄せ。得心したように幾度も首を縦に振る。
重々しい素振りの患者に、レオンは首を傾げた。
「そりゃあ、レオン先生。しようのないことだよ。あれほどの別嬪さんだ。その上、気立てもいい」
患者はしみじみと言った。
「レオン先生んとこのジャックだって、自分の子とおんなじように、分け隔てなく可愛がってくれているだろう。見てご覧よ」
小径の先へと患者が注意を促す。
「叱りつけられているのはリナじゃないか」
患者に促されレオンがナタリー達を再び見ると、リナはうつむいていた。
はっきりとは見えないが、唇でも噛んでいるのだろう。下ろした拳をギュッと握りしめている。
これは、まずい。
レオンの胸中は穏やかでない。
しかしレオンの前に立つ患者は、おしゃべりを気持ちよさそうに続けているし、リナを叱っているナタリーは、リナの不穏な様子に気づいていそうにない。
「風呂桶一つこさえるくらいで、嫁御になってくれるってんだったら、そりゃ誰だって奮い立つさね」
患者はしたり顔で言った。
レオン達の留まる小屋より離れた、斜面下。村中央へとのびる、小径の途中。
ナタリーは未だリナに道理を説こうとしていた。
「うちのボンクラ息子だって、出稼ぎに行ってなけりゃあねぇ。ああ、本当にいい嫁御をもらったもんだ。レオン先生が出会って早々、手篭めにしちまうのも、わかるってもんだよ」
「はいっ?」
リナの爆弾がいつ弾け飛びやしないかと、ハラハラ様子を見守っていたレオン。
だが、自身の患者から、とんでもない爆弾を落とされ、ギョッと目を剥く。
裏返ったレオンの声に、患者が目を眇める。
「これまで清廉潔白、肉欲なんかありゃしないって、神官さまでも目指してるのかと思ったレオン先生がねぇ……。いや、まったく。村の若いのには、ちぃとも食指を動かさないもんだから、もしかしたらアッチの方がお好きなんじゃないかと、あたしたちゃ、みんな、そりゃあ心配してたのにさ」
とんでもない誤解の上に、さらにまたとんでもない誤解が上塗りされているような気がする。
「あの」とか「はい?」とか「いやいや」とか。レオンは間抜けな合いの手を入れるので精一杯。
「それがなんだい。見たこともない別嬪さんが村に居ると思ったら、すっかりもう、レオン先生のお手つきだって言うじゃないか」
はあーあ、と深いため息とともに、ゆっくりと首を左右する患者。
レオンは青ざめた。
「庇護だなんだと言いくるめて、村に入ったとたん襲っちまうなんて……。他所者とはいえ、レオン先生も随分ひどいことをなさると、娘さんには同情しちまったよ」
「ちが……っ!」
思わず叫んだレオンをギロリと睨む、中年の女。
レオンは口を閉じた。
これは反論すればするほど、義憤を煽りそうだ、と。
ナタリーはどうやら、村の女衆をすっかり味方につけてしまったらしい。
なんという手際のよさ。さすが魔女。
人をたらし込む手腕に長けている。
「あの別嬪さん――ナタリーからあたしゃ聞いたよ」
患者は在りし日のことを思い返す。
初めてナタリーを目にした日。
なんとも美しい女がいるもんだ、と見惚れるのと同じく。その妖艶な美貌は、村の異物として禍々しく感じられた。
まるで魔女。
その怪しげな女は、レオンの小屋から出てきたではないか。
どうやらこれまでの目撃情報をまとめると、怪しげな女は、レオンの小屋に居着いてしばらく経つらしい。
レオンは村でたった一人の大事な医者先生。その身に何かあっては困る。
村の衆は団結した。
フラフラとあちらこちらを見て回るナタリーを、ぐるりと取り囲む。
「あんた! どっから来たんだね!」
「あら。ごきげんよう」
ナタリーがニッコリと微笑むと、村長を始めとした男衆はポウっと見惚れ、すっかり骨抜きの様子。
ますます女衆の苛立ちが募る。
「どこから来たって聞いてるんだよ!」
「きゃっ!」
一人の女がドン! とナタリーを地に転がした。
実際には、それほど力が込められていたわけではない。
女の手が伸ばされようとしたとき。ナタリーは咄嗟に自身の腹部を庇った。
そのせいで女の手は、ナタリーの耳を突き飛ばす体となり、ナタリーがバランスを崩したのだ。
女は慌てた。
少しだけ、肩を小突くだけのつもりだったのに。ちょっと脅かしてやれれば、それで。
腹を庇ったまま地面にうずくまるナタリー。
一番年嵩の女が、屈んでナタリーの背に手を当てた。
「アンタ、もしかして、腹に子が……?」
ナタリーは顔を上げ、頷いた。
長老がナタリーに尋ねる。
「父親は誰なんだい。まさか――」
ほんのりと頬を染め、はにかむナタリー。
その姿は妖艶な魔女ではなく、可憐で愛らしい乙女の微笑みだった。まだ穢れを知らぬような。
ナタリーは答える。
「お腹の子は、レオンの子よ。大事な子。レオンが『僕の命に替えても、君と、この子を守る。だからどうか産んでほしい』って。そう言ってくれたの」
◇
「ナタリーはそう言ったんだ。あたしゃ、この耳で、はっきり聞いたよ」
患者の中年女が、レオンをギロリと睨む。
「あれほどの別嬪さんだ。レオン先生が惚れなするのも無理はない。他の男に取られたくないのもわかる。だけど、村に着いて早々に仕込んじまうなんて」
――だから、それはレオン違い……っ!
口を一文字に結び、顎をのけ反り。レオンがきつく目を閉じたとき。
坂の下から凄まじい爆発音が、レオンの耳に飛び込んできた。




