20 帰宮と兄ジークフリートの歓迎
「よく戻った」
両手を広げ、レオンハルトを迎えるジークフリートは、相好を崩していた。
歓迎に応えるべく、レオンハルトもジークフリートの背に、自身の腕を回す。
兄ジークフリートの胴回りは、男にしては華奢だ。力強くその背を叩こうとしたところで、レオンハルトはその手の勢いを殺した。
キャンベル辺境伯領で、騎士達と交わしていたような粗野な挨拶は、この王宮では相応しくないだろう。
頭一つ分、背の高いジークフリート。その胸に埋もれないよう、レオンハルトは注意深く身を離す。それからジークフリートの視線が自身に注がれていることを確認すると、首を垂れた。
ジークフリートからは、無防備なレオンハルトのうなじが露わになる。
いつでも刈り取れるレオンハルトの首。
「ただいま戻りました」
キャンベル辺境伯領へ遊学へ赴いた後でも、変わらぬ忠誠心を。
レオンハルトの主はジークフリートであると、露骨なほどに示唆してみせる。これにはジークフリートも眉をひそめた。
「レオン。おまえはいつまで恭順な犬のように振る舞うのか。私がおまえに卑屈さを求めてなどいないことくらい、そろそろ理解してほしいのだが」
はっとしてレオンハルトが顔を上げると、ジークフリートは困ったように眉尻を下げ、レオンハルトの肩に腕を回した。
それからレオンハルトの耳元に、その薄い唇を寄せると、そっと囁く。
「――よくやった、レオン」
その一言で、ジークフリートの機嫌を損ねていないこと、また自身の振る舞いが正しかったことを悟り、レオンハルトは思わず頬をほころばせる。
だが素早く口元を引き締めた。ジークフリートの鋭い一瞥が降り注ぐ前に。
◇
「安心した。腹芸の得意ではないおまえのことだ。キャンベル辺境伯領で羽を伸ばしていると聞き、すっかり鈍ってしまったかと。いやはや。杞憂であったな」
それまでの折り目正しい振る舞いを、扉の外へ捨て置いたジークフリートは、どさりとその身を長椅子に投げ出した。
ローテーブルを挟み、レオンハルトも両足を広げて寛ぐ。だが背は凭れかけず、膝と腿の間を幾度か往復するように、手で撫でさすった。
第一王子ジークフリートの私室ではあるが、完全に気を抜き、兄弟として接してよいのか、レオンハルトには判断しかねたのである。
ジークフリートは喉を鳴らして、くっと笑うと、「楽にしろ。人は払っている。――払える範囲で、だが」と額にかかる前髪を払った。
その様子は気だるげで、よくよく見れば、目の下に色濃いクマがある。
細面のジークフリートの頬が、さらに肉を減らしていて、ともすれば病人のようでもある。
栄養過多な王侯貴族達の顎は、皆だぶだぶと揺れており、それを隠すに豊かな髭を蓄えているものだが、ジークフリートにいたっては、まるで栄養失調の孤児のようだ。
王侯貴族の特徴でもある、金の髪と青い目、それから豪奢な衣装。
加えて高貴な顔立ちといったものが、ジークフリートを儚げな王子様然と見せているが、レオンハルトが宮を離れる前に慣れ親しんだ、ジークフリートの鷹のような眼光、威圧感は失せ、疲労に膿んでいる。
レオンハルトは両手を組み合わせ、身を乗り出す。
「私の不在時に、何か不都合が――?」
「いや、そうではない」
ジークフリートはその身を横たえたまま、眉間を揉んだ。
はぁっと吐き出される重苦しい溜息。
レオンハルトは組み合わせた手に力を籠め、ジークフリートの言葉を待つ。
「なに。国王陛下がな。おまえとキャンベル辺境伯令嬢との婚約締結に、いつまでも難色を示すのでな。宰相と共に、いい加減認めるよう迫っていたのだが――」
「な……っ!」
予想だにしなかった内容に、レオンハルトは仰天した。
レオンハルトの様子をちらりと一瞥したジークフリートは、「ああ」と疲れたように頷く。
「安心しろ。すでに話はつけた。おまえとキャンベル辺境伯令嬢との婚約について、速やかに王命は下るだろう」
「お待ちを!」
鷹揚に手を振るジークフリートに、レオンハルトは焦り、無礼を承知で言葉を遮る。
ジークフリートは片眉をぴくりと上げ、レオンハルトを睨めつけた。
鋭く厳しい眼差しに、レオンハルトはぐっと唾を飲み込む。「ご無礼を」と口ごもるレオンハルトに、ジークフリートは頷いて見せた。
「よい。言ってみろ」
「はっ! ……キャンベル辺境伯令嬢の件ですが」
ジークフリートは疎ましそうにレオンハルトを見る。
「ここに至って、よもや野猿令嬢の相手は嫌だとか、我儘を抜かすわけではあるまいな?」
『野猿』に差し掛かったところで、レオンハルトが凶悪な表情を向けるので、ジークフリートは噴き出した。
「すべて感情が表に出る癖はどうにかならないのか――いや、これは私の底意地が悪すぎたな。悪かった」
「――お手柔らかにお願いいたします」
「そうだな。私もミュスカデを侮られれば、毒蛇でも持ち帰らせよう」
ジークフリートは物憂げに起き上がった。
ローテーブルの上に置かれた、凝った意匠の宝箱を取り上げると、そこに何かを仕込むような仕草をする。
実際には何も入ってはいないし、何の魔力を込めた様子もないのだが、うっそりと笑うジークフリートの手ずから渡されるそれは、何か禍々しい気を放っているように感じられた。
レオンハルトは宝箱を膝の上に置いたまま、そこから身を離すように背筋を正す。
「それで? おまえが疑問としたのはなんだ?」
寝そべるのではなく、長椅子に腰を下ろし、レオンハルトと真っすぐに向かい合うジークフリート。
レオンハルトも逸らすことなく、しっかりと視線を交わらせた。
「私とキャンベル辺境伯令嬢の婚約は、陛下のご希望ではないのですか?」
ジークフリートの渋面が、レオンハルトの胸にそれが真実であると知らせた。
「ああ。陛下のお考えは私にはわからん。だが少なくとも、王家かねてよりの祈願である良縁――と思われてはいないようだ」
レオンハルトは宝箱をローテーブルに置いた。コトリと静かな音が、ジークフリートとレオンハルトの間に響く。
窓からは赤々とした夕陽が差し込んでいた。
ジークフリートの色素の薄い髪や頬、ローテーブルを照らす赤。まるで血のようだ、とレオンハルトは思った。
王侯貴族とは異なる、王国民の血の色。
その労力、営み。そして犠牲の上に、王族は立っている。




