25 トマスとマーサ、そしてルーク(1)
「儂の名もトマスで、そこの姉弟の父親もトマスだ。トマスという名の男はほかにもおる。この村にはトマスという名の男が多い」
長からの告白に、ルークはまばたきを繰り返した。
一度も顔を見たことのない父親。その名がトマス。
自警団の男とおなじ名だ。こちらもさきほど聞かされたばかり。
顔も知らぬルークの父親。それからツバ吐きの自警団の男。二人だけではない。
長の名も、姉弟の父親の名もトマス。
この村にはいったい何人のトマスがいるのだろう。
もしルークが平穏にこの村で育っていたのなら、ルークの名は奇天烈お嬢様ネモフィラが気まぐれに名付けた『ルーク』ではなく、『トマス』になっていたのかもしれない。
「この者はトマスの――おまえの父親の後妻として、となり村から嫁いできた」
長が枯れ枝のような腕をふりあげると、それまでひっそりと存在を殺すようにしてたたずんでいた中年女がおずおずと前に出た。
「マーサだ」
長が中年女の背に手を当てれば、前掛けをいじくる女の手がとまった。
しっかりもみこまれたためにしわくちゃになった目の粗い亜麻布から、ルークへと。女の視線がおびえたようにせりあがる。
「ご紹介にあずかりました。マーサです」
中年女はだぶついた顎をひいたまま、視線だけを二度三度、ルークに向けた。
ルークは「どうも」とこたえながらも、いかにも不快だと言わんばかりに眉をひそめた。
マーサという名の中年女からちらちらと寄越される卑屈な視線。いったいなんのつもりだ?
だがルークはすぐさま顔つきを変えた。マーサに向かって身を乗り出す。
「俺はルーク。悪魔だよ」
ルークの口の端が片方だけ、いびつなかっこうで吊りあがる。
「って、そんなことは知ってるか」
こちらの機嫌をうかがうようなマーサの様子が、ルークの癇に障った。
それに、ちょうど都合がいい。新たなからかい相手が手に入りそうだ。
ニールやその姉を挑発してやったものの、ルークにとって満足のいく反応――とくに姉のほうにおいて――は得られなかった。
こぼれ落ちそうなほどに大きく突き出たルークの目玉。ぎょろぎょろとのぞきこむのは、脂肪の奥の奥へと引っこんだ、豆粒のように小さなマーサの目玉だ。
マーサは両手で顔を覆った。とたん、わっと泣き出す。
「えっ。なに」
思いもかけない反応に、ルークは思わず立ちあがった。
ぬるま湯につかってぬくぬく過ごしているらしいこの村の住人に、すこしばかり気まずい思いをさせてやろう。ただそれだけだったのに。
「ええ……? 今のやりとりで、そんなに泣くことあった……?」
とまどいつつ、ルークはマーサのそばににじり寄る。
「いや、それともあれか。俺が悪魔だから、悪魔から話しかけられて、泣くほどおぞましかったってこと?」
たっぷりの嘲笑を含ませてルークが自虐を披露すれば、マーサは悲痛な金切り声でなにかを叫んだ。
鼻をぐしゅぐしゅ鳴らし、発音も明瞭でなく。マーサがなにを訴えたかったのだか、まったくわからない。
だがマーサは両手に顔をうずめながらも、傷んで縮れたほつれ髪を振り乱し、必死な様子で首を左右に振っている。
どうやら、ルークを嫌悪しているとか侮蔑しているとか。そういうことではなさそうだ。
「ええと」
ルークはおそるおそる手を伸ばした。
「あんた、大丈夫? よくわからないけど、とりあえず泣きやんだら?」
マーサの分厚くて丸い、立派な肩にルークの指先がふれる。
マーサがびくりと肩をふるわせるので、ルークはさっと手をひっこめた。だがマーサの泣き声がますます悲劇的な音色を奏で始めるものだから、ルークはうなり声をあげて、もう一度マーサの肩に手をのばした。
マーサは鼻を水っぽく鳴らすにとどまり、室内でわんわんと共鳴していた聞き苦しい泣き声がわずかにおさまる。ふるえてもいない。
ルークはこっそり安堵の吐息をもらし、マーサの縮こまった肩をぎこちない手つきでさすってやった。
これまでの人生で、ルークが他者をなぐさめたことはほとんどない。どうしてやればいいのか、よくわからない。
そこでふとルークは、恩人でもある彼の主ネモフィラを思い出した。
――そっか。俺は、お嬢様が泣くのを見たことがないんだ。
マーサのたくましい肩をゆっくりとなでてやれば、ルークのてのひらに高い体温が伝わってくる。
ネモフィラもまた、ふっくらどっしりずっしり。中年女のマーサをひとまわり小さくしたような体つきで、けっして華奢ではない。
王都の華やかで軽薄な男たちからチヤホヤもてはやされるような、そういった年頃の娘らしさは皆無だ。
ふくよかという言葉の示す範疇をやや超えるふくよかさ。顔のつくりは地味で平凡。頭だってよくない。
それならば気質が善であるかと問われれば、断言するには心もとない。聖人ではないが、極悪人でもない。その程度。
非常に怠惰で、他者への関心が薄いため、慈悲心が薄く、自己本位なところさえある。
落ちこぼれ令嬢などという嘆かわしい渾名が、ネモフィラの本質をとらえている。
それでも、だ。
キャンベル家という名家の令嬢が、なぜあれほどまでに軽視されなければならないのか。
――泣きわめいて当然のことだって、たくさんあった。それでもお嬢様は。
普段は覗かないよう慎重に避けてとおる記憶を直視してしまえば、鎮火されずにくすぶっていた種火が勢いよく燃え上がり、悪魔の舌のようにルークの胸中を炎が舐める。
たちのぼる黒煙は大鴉の広げる漆黒の翼へと変わり、縦横無尽に暴れまわる。
◇
おおよそ七年前。ルークがネモフィラに拾われてほどないころ。
ネモフィラは彼女の婚約者である第二王子との交流のため、王宮の庭園へと出向き、突如として倒れた。
その後しばらく意識が戻らず、昏睡状態が続く。
キャンベル家のひとびとは、彼らの大事なお姫様の目が覚めるよう必死に祈った。神に祈りが届いたのだろう。ようやくネモフィラは目覚めた。
ちょうどそんな折。
ネモフィラの叔父であるジョンソン氏が、彼の治めるグレイフォードくんだりから出で来て、いまだ落ち着かぬキャンベル辺境伯王都屋敷の門戸を叩いた。
いったいどのような用向きであったのか。
気の毒な姪の見舞いにおとずれたわけではあるまい。ジョンソン氏はネモフィラに一言も声をかけなかった。
それだけではない。
彼が伴った従者――やんちゃな顔つきには見合わぬ、厚みがあって艶々とした、いかにも質の良さそうな衣服に身を包んでいることから、青年は従者としてそれなりに地位が高いのだろう――は、ネモフィラを豚呼ばわりした。
豚だ。
よりにもよって、ネモフィラの叔父であるジョンソン氏。その忠臣が、キャンベル辺境伯の嫡出子ネモフィラを豚呼ばわり。
守銭奴の薄汚いエヴルー人を想起させる、卑しい獣。豚。
どうせ彼の主であるジョンソン氏が、日ごろから姪ネモフィラをそのように口汚く罵っていたのだろう。そうであるからこそ、一介の使用人風情がキャンベル本家のお姫様を豚呼ばわりできたのだ。
『キャンベル家の出来損ない。
ほかに嫁ぎ先を見つけられようにもなく、それがために王家に押しつけてやった。
キャンベル本来の流儀として、キャンベル家の姫を政略のために犠牲にすることはない。本人が本心から伴侶として望まぬ限り。
だがあのような豚では、いたしかたない。
フランクベルト家がキャンベル家の血筋を欲するのであれば、あの豚を売って恩を着せてやろう。
はてさて豚は、成長すればそれなりに旨い肉へと育つのだろうか? いい声で鳴くことはできるかな?
フランクベルト家の青瓢箪は、寝床で豚をうまいこと飼いならすだろうか? それとも豚舎へ追い払うか?』
控え室にて使用人どもが嬉々としてネモフィラの悪口を叩き、それをルークが盗み聞いたのだが、その場にネモフィラはいなかった。いなくてよかった。本当に。
同じようなことは幾度となく繰り返されてきた。
キャンベル家がルークを身請けしてから、たいした月日も経っていない。
それにも関わらず、ルークが心臓の凍える場面に出くわした回数は、どれほどだったろうか。彼を救い出してくれた恩人ネモフィラが、影で悪し様に罵られる場面に出くわした回数。
片手では数え切れないはずだ。
孤児院に押し込められていたころに『また殴られる』、あるいは『また蹴られる』と振り上げられた腕や脚を見上げるときでさえ、ルークの心臓は生き生きと発熱していた。
あれほどまでに心臓の凍えることはなかった。
ひどい中傷をネモフィラ本人が耳にしたことだって、もちろんある。
立ち止まってたたずむネモフィラのとなりで、ルークは石のように固まって主の横顔を眺めるだけのぼんくらだった。
それだから、もしあの場にネモフィラがいたのならば。彼女がどんな様子を見せたのか、ルークにはよくわかる。
表情が抜け落ち、ひたすらに無。うつろにさまよう視線。
魂と体とのむすびつきは、蜘蛛が紡いだ細く頼りない一筋の糸に過ぎず。そのようやくつながれた糸ですら、突風にあおられれば、いまにも千切れてしまいそうで。
◇
なぐさめてやりたかったのは、目の前の中年女なんかじゃない。
ルークはマーサの肩に置いてあった手をおろした。拳をかたく握りこんで歯噛みする。
突然泣き出した女。
意味不明だ。泣いたのだって、どうせくだらない理由からにちがいないくせに。本心ではルークを悪魔だと蔑んでいるくせに。
年甲斐もなく泣きわめいて被害者ぶって、みっともないこと、このうえない。
この女こそ、豚呼ばわりするにふさわしい。ルークの恩人ネモフィラではなく、この女こそ。
マーサは豚のように鼻を鳴らした。そうしてから、ようやく泣きやんだ。
顔を覆っていた両手をおろすと、険しい顔つきでうつむくルークが目に入り、マーサは助けを求めるように長へと視線をやった。




