24 悪魔の接待
住居である平屋と内塀のあいだには、太陽に向かって元気よく葉をのばす細長い葉がひしめきあっている。茂みの中で、緑色の草とおなじ色をしたバッタがぴょんぴょんと飛び跳ねた。
内塀へと視線をやれば、端にとまる黒い物体。大鴉だ。
大鴉は身じろぎせずに、茂みをじっと見つめている。バッタには捕食者への危機感がないようで、葉から葉へと楽しげに飛び移る。
大鴉はしばらくバッタのひとり遊びを眺めていたが、やがて太く短い首をぐるりとまわし、平屋へと向き直った。
平屋の中では誰もが押し黙っていた。
ルークには室内の空気が肌にひりつくように感じられた。
ふくよかな中年女が白いカップをのせたお盆を手にやってきて、テーブルの上にカップを来客の人数分、順々にならべていく。
最後にひときわ白く澄んだカップが、村の長の前に置かれた。長がゆっくりとカップを持ち上げる。
口元に押しあてられたカップは、干からびきった長の指とともにぶるぶると震えた。
ぐびり、ぐびり。長の細いのどが動く。
羽をむしった鶏のような首に、あわい赤褐色に色づいた液体が一筋伝った。
「それでおまえさんは、なぜここに戻ってきたんだね」
いまにも落としそうな危なっかしい手つきでカップをテーブルに置くと、長がルークにたずねた。
「トマスの言ったとおり、追い出されたのかね」
トマスというのは自警団に所属する中肉中背の男で、ついさきほどルークにうっかりツバを飛ばしてしまったくせ、手にしたタオルで顔をぬぐってもくれなかった男のことらしい。
とはいえ、すえた古い油のような加齢臭がしみついたタオルでごしごし顔を拭かれずに済んだのだから、むしろ幸運だったのかもしれない。そう思うことにしよう。
「追い出されたわけじゃない」
ルークは目の前のカップを両手で包み込み、中身をのぞきこんだ。
赤褐色の水面に、ルークの顔がうつしだされる。
目だけがやたらと大きい。みすぼらしく痩せこけた男が、ぎょろぎょろと神経質そうに目玉を動かしながら、ルークを見返している。
醜い悪魔。そんな言葉がぴったりの顔つきだ。
――こっちを見るな。見るな。卑しい悪魔め。
カップにふたをするように、ルークは両手でカップの上部を覆った。
顔を上げれば、憮然とした様子で腕を組むニールと目が合う。
「そんなことより」
ニールは、つっけんどんな口ぶりで言った。
「おまえ、リナとジャックのなんなんだ。さっきなにか言いかけてただろ」
ぎろりと凶悪な目つきでルークを睨めつける。
「答えによっては、容赦しねえ」
「容赦しねえって」
ルークはふきだした。
「俺と喧嘩して勝とうとか。そういうつもりでいるわけ? どう見たって、ただの子どもだよ、あんた。いくら俺が痩せっぽっちだからって、ガキに負けるはずがないね。それとも」
ルークが長をちらりと一瞥する。
長は茶に濡れた顎髭をふるえる指でしごいていた。
ルークの視線がニールへと戻される。
「権力者に取り入って、俺をリンチするつもりとか? あんたはそういうの嫌いそうに見えたけど」
ルークはにやりと笑いながら顎をひき、上目遣いでニールの目をのぞきこんだ。
「まあ結局、このあたりの人間はみんな同じかあ」
片手を顔のわきでひらひらと泳がせ、ルークがニールを挑発する。
「弱い者いじめで結束しているのが、ゴールデングレイン。そういうことでしょ」
「てめえ!」
ニールはテーブルにこぶしをたたきつけると、派手な音を立てて椅子から立ち上がった。
と、そのとき。ニールの姉が「あんたが弟を侮辱するなら、黙っちゃいられないね」と口をはさんだ。
「姉さん」
ニールが姉へと振り返る。
姉は弟が倒しかけたカップを手で支え、ルークを見据えた。
弟のように激昂することなく、まったく落ち着いている。
「保身のためなら、他人を犠牲に差し出す」
ルークが冷たく言い放てば、姉はたじろいだ。
「俺みたいな、あんたにはなんの関わりのない悪魔に限った話じゃない。あんたの知り合いらしいジャックとリナもだ。あんたはあの子たちを他人だからって見放したんだろ。そうでなきゃ、今この村にジャックとリナがいるはずだ」
みじめにくちびるを噛む姉を見て、ルークは鼻で笑った。
「この村の因習に逆らわず、ひたすら流されるままの女が、ずいぶん強気に出られたもんだね」
「姉さんをばかにするな!」
ルークの悪態に弟が勇ましい罵声で応えたが、姉はふたたび弟の発憤をなだめおさめた。
「いや。ニール、いいんだ」
弟の腕を引いてどうにか椅子に座らせると、姉は神妙におのれの罪を告白し始めた。
「あんたの言うとおりさ。あたしは保身のために、ジャックとリナを匿わず、家から追い出した。せっかくこのニールが――」
弟の腕をつかむ姉の手に、力がこもる。
「強くて優しい、あたしの自慢の弟が、おそろしい炎と敵の目をかいくぐってあの子たちを救い出したっていうのに。それをあたしは、非情にも追い払ったのさ」
姉への苛立ち、不満、反発。それから、愛情に根ざす、もっと温かいなにか。
対立するさまざまな感情を飲み込めずにいるのか。険しい顔つきで姉の手を乱暴に振り払いつつも、ニールは姉の横顔へとちらちら横目をやる。
姉は弟に「ごめんよ」と謝ってから、ルークに向き直った。
「この村の人間は、生まれたばかりでか弱い、大人の庇護を必要とする赤ん坊のあんたをこの村から追い払った。罪のない子どもを罪深い大人が痛めつけた。あたしも同じさ」
これにはルークがたじろぐ番だった。
難癖をつけたものの、これほどあっさり受け入れられてしまうとは。
だって、そんなことはあたりまえのことだ。
誰だって我が身がいちばん可愛いに決まっている。そうでない人間など、どこにいる?
貴族令嬢という、下々の人間にいばりちらしていいような身分にも関わらず、最底辺を這いつくばる悪魔をわざわざ地獄から救い出した、ルークの恩人ネモフィラ。
彼女はもともと貴族社会における異分子ではあったのだが、ルークを拾ったことによってよりいっそう眉をひそめられることになった。
だがそんな彼女とて同じ。我が身第一であることにかわりはない。
皆同じだ。
我が身可愛さで、他人の犠牲に目をつむる。
そうであるからこそ、人は皆、言い訳を取りつくろう。
自分は悪人ではない。正しいことをなしたと信じたがる。
そのための悪魔だ。そのためにルークのような悪魔が生まれた。
悪魔とはつまり、神罰。人間の犯した、決して赦されざる罪の証。
悪魔を虐げ排除することは、神の意向に添う。正義の鉄槌そのものである。
悪魔は悪魔だ。
無実で不運な子どもなど、この村には存在しない。
そのはずだろう。
「あたしは、あたしの家族のために、この村の平和と秩序を選んだ。神様のおっしゃる憐れみと慈しみの心で、罪のない気の毒な兄妹を守ることよりも」
罪悪に後悔という炎を茶色い瞳に宿しながら、姉はルークをまっすぐに見つめた。
「あんたの言うとおりさ」
「俺は……」
ルークはぺろりとくちびるをなめた。
口の中が乾いている。そういえば朝起きてから、なにも口にしていない。
ルークは目の前に置かれたカップを手に取り、中身を勢いよく流しこんだ。ネモフィラがたまに孤児院で分けてくれる飲み物と似た味がした。
値打ちものだ。そのあたりに生えている雑草を煮出したような代物ではない。それはたしかだ。だが、忌むべき悪魔にこれを出す意図はなんだ?
ルークはのどを大きく動かし、ごくりごくりと飲みくだした。口の中のねばつきが洗い流される。
「おまえの父親は、名をトマスという」
ルークがカップをテーブルに置くのを見計らって、村の長は切り出した。




