19 出立前
キャンベル辺境伯は王都召喚の勅命に首をひねっていた。
先の争いについては、辛勝ではあったがひとまず情勢は落ち着いた。また新たな戦いの火種でも生じたのか。
しかしそれならばそれで、王都に呼び出す必要はない。
王命とあらば、辺境伯はいつでも戦いに参じるし、それについて国王が顔を突き合わせてキャンベル辺境伯の是を問う必要などない。
王都と辺境伯領の往復にかける時間も費用も無駄である。緊急につき辺境伯のみ早駆けしろというのならばまだわかるが、第五王子レオンハルトと同行しろという。なぜなのか。
そしてまた、そうであれば警備はそれに準じなければならない。
一方でレオンハルトは父王からの呼び出しが、キャンベル辺境伯と自分との縁を繋ぐためのものであると推測していた。
キャンベル家は建国以来の旧き家にも関わらず、純血主義を掲げず、政略的婚姻をよしとせず。当主を始め一族の者たちは様々な国、民族の者達とその血を交わらせてきた。
宮廷貴族ではなく、封建領主の姿勢をいまだ貫く。しかしながら、それでいて王家への忠誠心は宮廷貴族である、ほとんどの大貴族達より厚い。
――第五王子である僕ならば、王家の青い血を繋ぐ使命より、国力を高める役割をより求められるだろう。キャンベル辺境伯領とその武力、忠誠。なによりナタリーの桁外れの魔力。兄上の治世にも役立てる。
レオンハルトが父王にナタリーについて詳細を告げずとも、すでに全て知られているに決まっている。レオンハルトの抱くナタリーへの感情の類が、いかに好都合かなど。
父王が是を示すのならば僥倖。だが、かといって王命を下されては困る。
「辺境伯。この度の召集令状について。またご令嬢について、少々よろしいでしょうか」
レオンハルトが微笑みかけると、キャンベル辺境伯はいぶかしげに顔をあげた。
◇
鍛錬を終えて湯あみをしたナタリーは、回廊を一人歩いていた。
窓の外は既に薄闇色。壁にかけられた燭台で炎が揺らめき、ナタリーの右半身を橙色に染める。
「ナタリー」
静かな回廊に落とされたのは、静かな少年の声。
ここしばらく、ナタリーと熱く拳を交わし、大口をあけて肩を叩きあった友。
波留のように硬質で、親しみの感じられぬ声色。
ナタリーは首を傾げた。打ち解けたはずの友人に、こんな改まったふうに声をかけられる理由が思い当たらない。
「どうしたの。レオン」
ナタリーが気負いなく返す。
薄暗い回廊でたたずむレオンハルトはナタリーのもとまで歩み寄り、膝をついた。
「君に勝てぬうちは、と思っていたのだけど。どうもそうはいかなくなった」
「なんのこと?」
顔を上げ、まっすぐに見つめてくるレオンハルトの碧い瞳。そこにはナタリーの背にある燭台の炎が映っている。
レオンハルトはにっこりと微笑み、「しつれいするよ」とナタリーの手を取った。剣ダコだらけで、皮のあつい、令嬢とは思えぬ硬くて節くれだって、荒れた手。
ナタリーは急に、なぜだか自分の手が、少し恥ずかしく感じられた。
「あのね。君が僕を戦友だと認めてくれたことは嬉しいんだけど」
「戦友だなんて思ってないわ。そこそこの出来の弟子だと思ってる」
「ああそっか。うん。それでもいいんだけどね」
ナタリーとて、目の前でひざまずかれ手を取られれば、レオンハルトが何をせんとしているかくらい察している。
日々鍛錬に明け暮れるじゃじゃ馬令嬢であっても、夢見る乙女であることには変わりない。なにしろキャンベル家は代々恋愛結婚で血を繋いできた家なのだ。
それに辺境伯騎士団の騎士達は、粗野な田舎者ではあるが純朴だ。そのうえロマンチストだったりする。
だからナタリーはそれなりに大事な姫君としても扱われてきた。ときおりは本気で求愛してくる少年騎士がいたこともある。
つまり、レオンハルトが緊張でこわばったほほえみを浮かべ、潤んだ瞳で己をじっと見つめてくれば。ナタリーだって、それくらいわかる。
ナタリーは叫びたくなるくらい恥ずかしかった。叫び出したくなるくらい、心臓が高鳴った。
手を振り払って、逃げ出したくなった。手を振り払って、思い切り飛びつきたくなった。
だから口を一文字に結び、頬を染めて待った。
「僕は君のパートナーになりたい。これからもずっと。君の唯一のパートナー。ともに戦場に立ち、辺境伯領の民を守り、繁栄させ、国の砦となり、剣となり、子孫へと血を繋いでいく。その相手を僕とすることに、君の許可がほしい」
そこまで言うと、レオンハルトは息を吸った。そしてゆっくりと吐き出す。
レオンハルトの差し出した手とは逆の手が、ナタリーの手の甲を覆った。
じっとりと汗をかき、湿っている手のひら。だがその汗は、レオンハルトのものなのかナタリーのものなのか、よくわからない。
自由なままのもう一方のナタリーの手が挙上する。胸、首、それから口元へ。ゆっくりと。
「どうだろう? 僕と約束を交わしてくれないか?」
レオンハルトはじっとナタリーの黒い瞳を見つめた。
ナタリーの夢に見ていたような、ロマンチックな台詞ではまったくなかった。けれどナタリーは満足し、レオンハルトに及第点をあげた。
レオンハルトの言葉には誠意があったし、キャンベル辺境伯領を理解しているように思えた。
それに事前にナタリーが頷くのならばという条件下で、父辺境伯から了承だって、もぎ取っていた。
なによりレオンハルトは防いだのだ。
無味無臭どころか退屈で傲慢で、反吐が出るような王命が、ナタリーの耳に入ることを。