21 ゴールデングレインの光
ゴールデングレインを遠く離れ、馬車移動で幾日。
石畳の広い街道にルークは驚いた。
街道沿いを整然とならぶ建物。
泥粘土や藁、おざなりでまばらな漆喰壁の見慣れた小屋ではない。灰色の石でできているようだ。
漆喰か石灰モルタルか、外壁材の塗りこめられた壁もあり、均等な厚さで美しく整えられている。色は青、赤、暗褐色、緑、紫、白に黄色、黒とさまざまで、全体的には淡い色調が多い。
天までそびえたつほどに高く積み上げられているものまである。
それから窓にはめこまれた、透明の板。ガラスだ。
ガラスは馬車の窓にも取りつけられていて、ルークが一番最初に感動したものだ。歪みも曇りも不純物もなく、透きとおっている。
このあたりの建物の窓はたいがいガラスがはめ込まれていた。濁ったり歪んだりしてはいるものの、外からでも室内の様子が見える。
レースで囲われた窓には美しい花を飾っている家もあって、ルークは知らず、感嘆のため息をもらした。
ゴールデングレインでは、窓は開け放たれた壁穴のままだったり、板でふさがれていることが多い。
整備された街区を行きかうひとびとは、野良仕事に従事してはいないらしく、上半身に泥がついていない。目立たない泥はねが裾にこっそり見つかるくらいだ。
ひとびとの髪も肌も瞳も、色が統一されていない。衣服や仕草も、それぞれ固まった集団で違うように見える。異物も数が集まり集団になってしまえば、悪魔ではなくなるのかもしれない。
中心部へ至る前には、石畳の上を自由に歩き回る豚を見かけることがあった。
片隅に鼻をつっこんで残飯やら糞便やらを漁る豚というのは、どこへ行っても同じかと眺めていれば、立派な屋敷が立ち並ぶころには、いっさい見かけなくなった。
そのほかの家畜も同様。
馬はともかく、牛に羊、鶏などの家畜は、生きて歩き回る姿を見かけることが少ない。
荷馬車の上であおむけに縛られた牛を通り過がりに見かけたが、あの牛は生きてはいないだろう。
これまでの道中、ひとびとが密集する街並みのほか、木々のしげる森もあった。だが、大鴉の森とは様子がちがう。
お嬢様とともに立派な馬車に揺られる間中、ルークはひたすら馬車の窓にかじりついた。
ルークの育った孤児院も生後間もなく追い出されたゴールデングレインも、獣と共生し、精霊のからかいを日々疑わざるをえないような濃霧がたちこめていた。
このあたりを包むのはみずみずしい霧ではない。石畳を駆ける騎馬や馬車が巻き上げる乾いた砂ぼこりだ。
共通点を挙げるとすれば、天候だろうか。
来る日も来る日も曇天ばかりで、すっきりした晴天が望めないところは、霧中のゴールデングレインと似ているかもしれない。
「ここはフランクベルト。この国の首都なのですって」
お嬢様はこころもとなさそうに視線をさまよわせながら、ルークに告げた。
「ルークのいたゴールデン……なんだったかしら……キャンベル領と一応は同じ国ですわ」
となりにすわる女使用人を、お嬢様は不安げに見上げた。
ひっつめ髪の女使用人は無表情を装いながらも、口の端がぴくりと引き攣れている。お嬢様は息をのんだ。かと思えば、すぐさま女使用人同様に表情を消す。
「本当に?」
ルークはべったりと窓にはりついたまま、上の空でたずね返した。
あのゴールデングレインと、ここフランクベルトが、同じ国。
はたして本当にそうだろうか。お嬢様がばかなだけで、真実は違うのではないだろうか。あるいはもの知らずなルークをからかって遊んでいるのではないだろうか。
さまざまな疑問が浮かび上がったが、口にするよりさきに初めて目にする景色がつぎつぎに現れるので、ルークはぽかんと間抜けに口を開いているだけになった。
王都フランクベルト。
王様たちが主に居住する場所。
お嬢様よりもっとえらいひとたち。この国を築き、そこに住まうひとびとを支配するひとたち。
茫然と景色を眺めるだけのルークにお嬢様はそれ以上声をかけることもなく、ルークはいつのまにか立派な屋敷へと運ばれていた。キャンベル家が王都にかまえる屋敷らしい。
そこでルークは、厩務員として召し抱えられることになった。
◇
ルークがキャンベル辺境伯王都屋敷の厩舎にいすわるようになって、しばらくしてからのことだ。
ルークはひとり、馬房の掃除をしていた。
馬たちはほかの厩務員によって連れ出された。
そのあいだに、よごれた寝藁をまとめて外に干し、新しい寝藁を敷かなければならない。
ルークのほかには誰もいない馬房。馬もいない。
そこへ突然「あの、ルーク」だなんて女の声がしたら、驚くにきまっている。
ルークは飛び上がり、せっかく集めた寝藁を放り出した。
「くそ。またやりなおさなくちゃ」
舌打ちとともに振り返ると、そこには、ひどく不安そうにあちこち目をさまよわせるお嬢様がいた。
「なんだ、あんたか」
ルークはため息をつくと、散らばった寝藁をかき集めた。
「馬に乗りたいの? 馬はいま、外に出ているよ。見てのとおり、ここにはいない」
お嬢様の顔も見ず掃除に専念するルークだったが、「いえ。馬ではなくて、ルークに会いにきたの」という意外な言葉が返ってくる。
「俺に?」
ルークは集めた寝藁を一箇所にまとめて端に置き、顔を上げた。
お嬢様はおっかなびっくりルークに近づいた。
なんなんだ。ルークは眉をひそめる。ルークに会いに来たというもの、お嬢様はなかなか切り出さない。
お嬢様は両手をもみしだきながら、ようやく口を開いた。
「ルークがここにきて、しばらく経つけれど……。わたくしの名前を呼んでくれないのは、どうして?」
驚いて声も出せないルークに、お嬢様は落胆して背を向けた。
「やっぱり。いい人ぶってみたところで、わたくしが嫌われることは変わらないのね」
とぼとぼと去っていくお嬢様に向かって、ルークは叫んだ。
「なに言ってるんだ! あんた、俺に名前を教えてくれていないよ! わかるわけないじゃないか! 他の誰も、あんたの名前を教えてくれないし!」
お嬢様は勢いよく振り返った。長いブルネットの髪がぶるん、と馬の尻尾のように揺れた。
「だいたい、ここの厩舎の人たち、どうなってるの? あんたってえらいはずだよね?」
ルークは苛立ちに任せて吐き捨てた。
「あんたのこと、名前で呼ばないばかりか――」
そこまで言ったところで、ルークは口をつぐんだ。
悲しんだり、怒ったりしていたならば、まだよかった。
ルークを見るお嬢様から、表情が抜け落ちている。
ぞっとした。
ばかで恵まれきった金持ちのお嬢様。それなのに、なぜ。
ルークは孤児院の悪魔たちを思い出した。
大人から殴られ蹴られ、身体をまるめてやり過ごすときの、あの表情。からっぽ。
ルークは思わずお嬢様に駆け寄った。
「ていうか、そもそもさあ」
気まずい心地であちこちに視線をさまよわせ、ルークはもごもごと口ごもって、弁明する。
「あんたの名前がわかったって、あんたが名乗ってくれなきゃ、俺があんたの名前を呼んでいいのかもわかんないし。あんたはえらい人なわけだし」
「そうでしたの」
お嬢様ははにかんだ。
「気がつかなくてごめんなさい」
「いいよ。あんたがばかなのは知っているし」
ルークはぶっきらぼうに言った。
お嬢様はうつむいて、もじもじ手をいじくりながら、ルークに名前を教えてくれた。
ネモフィラ・キャンベル。ゴールデングレインの大領主であり、キャンベル一族当主であるキャンベル辺境伯アルバートの長女。
お嬢様の名前をようやく知ったルークだったが、その後もお嬢様の名前を呼ぶことはなかった。
とはいえ、あんた呼ばわりすることだけはやめた。
◇
あれから七年弱。
孤児院から救い出されたはずが、なぜかいまも孤児院暮らしをしている。ルークだけでなく、金持ちのお嬢様であるネモフィラまでもが。
ルークはよごれた両手を顔の前にかざした。
ぼんやりとした光。暗くはない。明るくもない。手をかざしても影はできない。濃霧のせいだ。
太陽が大地へと降り注いているはずの光は、ルークのもとへ届く前に、霧の中へ吸い込まれてしまう。
地面にはブナの根が張り巡らされ、苔が蔓延っている。シダの大きな葉もあちこちからのびてきて、ルークの腰まで覆う。足場は悪い。
それだから、うっかり転んでしまった。
そのひょうしに水たまりについた手。ぬめっとした汚れがこびりついている。
泥と深緑の苔が不気味に混じり合い、まるで魔女のつくり出すおぞましい呪薬のようだ。
孤児院でネモフィラに拾われたあの日。
ネモフィラが握ってくれたルークの手も、今とおなじくらいよごれていた。きたなかった。ひどかった。
今のルークだったら、得体のしれないよごれがベッタリついた、『病気』がうつるかもしれない見知らぬ孤児の手なんか、ぜったいにさわらない。握らない。
「悪魔の俺にルーク――『光』だなんて。お嬢様は本当にばか」
ルークは、てのひらの汚泥をしまいこむようにして手を握りしめた。
「さて」
だらりと両腕をおろして、深く息を吐き出す。
「悪魔呼ばわりされに行ってくるとするか」
ルークの細い首がのけぞり、のどぼとけが浮かび上がった。
天をあおぎ見れば、上空はすっかり深い紺色。視線をおろして集落を見やれば、空と地のはざまに橙色の名残りがわずかな濃淡を残している。
「ああ。やっぱりいやだなあ」
ため息まじりにルークはぼやき、のそのそと気乗りしない足取りで丘を降り始めた。