20 へんなやつ
「へんなやつ?」
申し訳なさげということもなく、お嬢様がたずねる。
「あなたはへんなやつなの?」
やはりこのお嬢様に、遠慮やら配慮やらは望めないようだ。
金持ちとはそういうものなのかもしれない。
「ふつうとちがうってこと」
男はあきれるばかりで、苛立ちもわいてこなかった。
「俺はふつうの赤ん坊より早く生まれてきたんだって。それで悪魔」
にやりと笑って、お嬢様に向かって指をさす。
「あんただって悪魔じゃないの? ここらへんじゃ栗毛ばっかりなのに。その髪、ずいぶん黒っぽい。黒髪なら悪魔だよ。あんたも金持ちじゃなかったら悪魔。ここに捨てられていたね」
お嬢様はつぶらな瞳を大きく見開いた。
怒るかな。男はにやにやしながらお嬢様の反応を待った。
悪魔呼ばわりした無礼な孤児にお嬢様が怒って、男を殴らせたり蹴らせたり。折檻を受けることになったっていい。
憎悪や暴力とは無関係だといわんばかりのすまし顔を、ぐちゃぐちゃにゆがませてやりたい。
「ああああ! 悪魔ってそういう!」
お嬢様は両手をたたいた。
「そういうことでしたの!」
ぱちん、という破裂音とともに、お嬢様の鼻を悪臭から守っていたハンカチが舞う。ひらひら。
ルークはつられて目で追った。
お嬢様は気にもとめず、ハンカチはねっとりした床に落ちた。鼠の糞まみれだ。
きれいなハンカチだったのに。
もったいないような気がして、ルークは顔をしかめた。
だがお嬢様の様子といえば、淡い水色の瞳をキラキラあかるく輝かせている。
「あら?」
かと思えば、お嬢様は下唇を突き出しあごにしわを作って、目玉をぐるぐる回し始めた。
金持ちのお嬢様とは思えない不気味なしぐさだ。
こいつ、やっぱり本当は悪魔なんじゃないの。いまにも尻尾やツノが生えてこないだろうか。
男はお嬢様をじっと眺めた。
「ということは、ヒロインちゃんは悪魔ということ?」
くちびるを指でつまみ、びよんびよんとのばしたり。上下左右にぐねぐねこねくり回す。
「どういうこと? ヒロインちゃんは黒髪だったような……。でも、そうですわ。わたくしが悪役令嬢なのは、ふつうのご令嬢方とちがうからなのかも。ふつうとちがうから悪魔……ふつうとちがうから悪役令嬢……?」
「さっきからなにを言っているの。意味がわからない」
お嬢様の奇行をおもしろがっていた男だったが、だんだんと話についていけなくなり、当惑に眉をひそめた。
「あのさあ、それよりも。あんたから院長に手を離すよう言ってくれないかな」
ぐいっと首をひねり、男は院長を見上げた。
「あんたの許可がないと、この人、俺のことおさえつけたまんまでいるしかないみたい。あんたが一番、この場でえらい人だから」
「そういうものなのですね」
お嬢様ははっとした顔つきになった。
「ごめんなさい。気がつかなくて。院長さん、どうか手を離してくださいませ」
院長は悪態をつくこともなく、素直に手を外した。
男からもお嬢様からも距離を取り、外に向かって開け放たれた扉近くまで下がる。そこで院長の背中がお嬢様の連れてきた、たくましい体躯の従者にぶつかった。
院長がバッタのようにぴょこぴょこ頭を下げる。
男はにやりと笑った。胸がすっとする。
「ああ、楽になった」
ようやく頭が自由になり、男は肩に手を当てぐるりと首を一周させた。
「それにしても。こんなこともすぐにわからないなんて、あんた本当にばかなんだね」
男の軽口にお嬢様はしょげかえって、「ごめんなさい」と言った。
「あなたはわたくしより、ずっと頭がよいのでしょうね。それなのに、ちょっと生まれるのが早かっただけですのに……」
お嬢様はうつむき、床に落ちてよごれたハンカチをじっと見つめた。
「それだけで悪魔だなんて、この世界は本当に残酷ですわ。ううん、この世界も、なのかしら……」
「『この世界も』ってなに」
男はうつむいてしまったお嬢様の顔を下からのぞきこむ。
「あんたの言っていること、本当に意味がわからない」
きたないとか。くさいとか。
距離を縮めればお嬢様が嫌がるだろうことはわかっている。
だがどんな表情をしているのかが気になった。
悲しそうだったらどうしよう。
さっきみたいに、不気味なしぐさでもなんでもいい。しょんぼりしていなきゃいいけど。
もっといいのは、笑ってくれること。淡い水色の瞳をキラキラさせて。そうすれば、お嬢様が髪に飾っている水色の宝石みたいにきれいなのに。
男とお嬢様の目が合う。
お嬢様はびっくりしたようで、一歩あとずさる。
男はむっとした。
「わたくしも、あんまりよくわかっておりませんの。ごめんなさい。でも、これだけはわかりますわ」
お嬢様はあわてて男に手を差し出した。
「ルーク。あなたの名前はルークよ。あなたはキャンベル家に仕えると決まっているの。そういう運命なの」
ルークと名づけられた男は、お嬢様の手を取った。おそるおそる握る。やわらかくて、すべすべしていて、温かい。
ふくふくと肉付きがよく、苦労なんてひとつも知らなさそうな手。
ルークが手を離せば、まっしろだったお嬢様の手は、ルークの垢やら膿やら。なにやら得体のしれないドロドロでよごれていた。
「きたないですわ……」
お嬢様がぼそりとつぶやく。
「あたりまえでしょ」
ルークはぶっきらぼうに言った。
腹は立たなかった。ルークはお嬢様から顔をそらし、床に落ちたハンカチを拾った。
よごれてはいたものの、それでもルークの手よりはきれいだ。
ルークはハンカチをじっと見つめ、「これ、もらってもいい?」とたずねた。
「ええ、どうぞ」
お嬢様は首を傾げた。
「でも、よごれてしまいましたわ。もしよろしければ、新しものを差し上げますけれど」
「これでいい」
ルークはハンカチをまるめて、おのれの手をごしごし拭いた。
よごれた手が、すこしはましに見える。
ルークのせいでよごれてしまったお嬢様の手が気になった。
すると、扉近くで置き物のようにたたずんでいた従者が、静かにお嬢様のもとへ歩み寄り、そっとお嬢様の手を取った。
優しい手つきで、お嬢様を外へ連れ出す。窮屈で不潔な薄暗がりから、淡い光の漂う、開かれた曇天の下へ。
ルークはぼんやり、ふたりの背中を見送った。
背丈が高く、立派な体躯と立派な身なりの、大人の男。
どんなときでも、お嬢様を守ってやれるのだろう。
お嬢様がいなくなった途端、院長がルークの腹を蹴り上げる。
ろくなものを食べていないので、衝撃のあまりにルークの口から飛び散ったのは、苦くてくさい汁だけだった。
それでもルークは、よごれた床に転げないよう踏んばった。
これ以上、よごれたくなかった。せっかくお嬢様に拾われたのだから。
ルークのよごれ具合にうんざりしたお嬢様が、ほかの子どもを選び直してしまうかもしれない。『お嬢様のルーク』になるのは、ルークだ。
お嬢様の気が変わらないうちに、ここを抜け出してやる。残されたほかの子どものことなど気にしない。
院長の言うとおり、しょせん悪魔として生まれたのだ。
ルークが無言で院長を睨めつける。
ルークのまなざしに院長はまごつきながらも、「告げ口するなよ」と捨て台詞を吐いた。
「するもんか」
ルークはお嬢様からもらったハンカチを握りしめた。
お嬢様はルークに名を与えたが、おのれの名は名乗らなかった。
悪魔のような下等な存在に名を呼ばれたくないのだろう。




