19 悪魔とお嬢様
一見すると黒にも見える、暗い栗毛。
鼻で呼吸することをどうにか回避しようと、ハンカチで鼻を覆っている間抜けなお嬢様は、黒髪の悪魔に見えなくもなかった。
男はまじまじとお嬢様を眺めた。
悪魔だろうか。彼女が男とおなじ悪魔だから、男を孤児院にまで迎えにきてくれたのだろうか。
いや、金持ちの人間だろうが金持ちを装った悪魔だろうが。なにを気にすることがある。どうせいまより悪くなることはない。
掃き溜めから抜け出せるのならば、本物の悪魔にだってついていく。
だが男の意気込みとは逆に、お嬢様は男から離れた。
「ううっ。やっぱり、ちょっと」
じりじりとあとずさりつつ、お嬢様は男の全身へとすがめた目をよこす。
「想像以上にきたなすぎますわ……。蚤や虱くらいは覚悟しておりましたけれど。体のあちこちからいろんな色の汁が出ているのはいったい……?」
上から下へ。下から上へ。視線が往復する。
遠慮のかけらもない品定めに、男はあっけにとられた。
「えええええ……そばに寄ったなら、病気をもらってしまいそう」
お嬢様がひどくつまったような鼻声でしゃべるたび、鼻を覆うハンカチがひらひらと揺れる。
「それともこれくらいはふつう? 病気ではありませんの? わたくしがばかなだけで、平民の常識なのかしら?」
誰にたずねるでもない自問自答が、ぶつぶつと続く。
「いえ、そんなはずはないわ。やっぱり、これではあまりにひどすぎると思うの」
ぎゅうぎゅうとできるかぎり、中央に寄せられた眉。強烈な悪臭のためか、目に浮かぶ涙。
そこまではしかたがない。しかたがないとしても、だ。
お嬢様の口ぶりときたら、いったいどういうことだ。
迎えにきてほしいなどと、男が頼んだわけでもないのに。
「そりゃきたないよ。ひどいよ」
男はつめよった。
「あたりまえでしょ」
お嬢様が「ひっ」と短い悲鳴をあげる。
なんだこいつ。男は腹が立つのと同時に、なんだかおかしくなった。
そうだ。それならいっそ、もっともっと悪魔らしくふるまってやろう。
男は白目が見えるほど大きく、目をかっぴらいた。
それから口の端をゆっくりとつり上げる。歪なかっこうで、にんまり。
「ここは悪魔捨ての孤児院だもの」
男は、垢だらけの痩せこけた顔をずいっと前につきだし、お嬢様の目をまっすぐに見た。
「ここがどこだか知らないできたの? ばかなの?」
「なんという口のきき方を!」
男の言い分に憤慨した孤児院の院長が、男の腕を乱暴にひっぱった。
男はよろけた。そのまま院長のほうへと倒れ込みそうになる。
きたない孤児の体が必要以上に触れぬよう突き放しつつ、院長は男の頭を上から力強くおさえつけた。
「大変申し訳ございません! こいつにはかならず折檻をいたします。どうぞお許しを」
院長は男の頭を無理やりさげさせながら、必死に取り繕う。
「こいつはしょせん、悪魔として生まれたものですから。どれほど殴って聞かせても、ねじくれた性根を矯正することができませんでして。はい」
男の態度の悪さは、男が悪魔であるからだ。それだから養育者を統括する院長の自分に責任はない。罰を問わないでほしい。
そんな思惑が透けている。
年端もいかない女児相手の慈悲にすがるくらいだ。どれほどみっともない顔つきをしているのだろう。
男はどうにか首をひねって、院長のへつらい顔を睨め上げた。
「それともお嬢様のお気の済むまで、いますぐ殴ってみせましょうか。蹴るほうがよろしいですか」
院長はへらへら笑いをひっこめ、男をじろりと見下ろした。
「鞭もございます」
凶悪な目つき。
孤児を躾けるべき名分を根拠に、弱者をいたぶることに慣れ、ひそかに楽しんでさえいる。
ふだんは寄りつきもしないくせに。男は歯噛みした。
鼠の糞に蚤と虱だらけの孤児院になんか、興味もないくせに。たまにやってきては、うっぷん晴らしに痛めつけやがって。
院長の鷲鼻にかみついて、付け根からかみちぎってやりたい。男はきつくこぶしを握った。のどをうならせることで、衝動をこらえる。
それから目の前に立つ、お嬢様をのぞき見た。
波打つ豊かなブルネットをむしりとって禿げ頭にしてやれば、金持ちのお嬢様でもそれなりに絶望してくれるだろうか。
男とおなじところまで落ちることはなくとも。
「殴るの? 殴られたら痛いと思うの。蹴られるのも鞭も痛そう……かわいそう」
お嬢様はハンカチで口もとを覆いながら、肩をふるわせた。
「それに、悪魔って?」
淡い水色のつぶらな瞳が、院長と男のあいだをいったりきたり。こわごわと視線がさまよう。
「あなたたち今、悪魔と言ったの? えっ。なぜ悪魔なの?」
ふっくらまるまると太ったお嬢様は、おびえたようにぷるぷると頬を揺らして男に視線をさだめた。
「もしかして、あなた。悪魔なの?」
院長に頭をおさえつけられる男を眺めるうち、お嬢様の表情から恐怖が消えていく。
代わって疑問が浮かび上がったようだ。首を傾げている。
「わたくしには人間のように見えるのですけど」
おそるおそる男のそばに近寄り、おさえつけられて顔を上げられない男の顔を下からのぞき込む。
「というより、悪魔ってこの世にいるんですの?」
「あんた本当になんにも知らないで、ここにきたんだね」
男の両手がだらんと力なく垂れさがる。
「やっぱりばかだ」
世間知らずのお嬢様を誰も止めなかったのだろうか。なにも教えてやらなかったのだろうか。
どうやら院長も驚いているようだ。
男の頭をおさえる力が弱い。男は頭を上げた。
はっとしたように院長がふたたび、男の頭をぐいと押し下げる。
「悪魔というのは、そのう。あのですね……ええと」
院長は言いよどんだ。
ゴールデングレインの大領主キャンベル辺境伯の存在が、頭に浮かんだのだろう。
キャンベル辺境伯曰く、魔女も悪魔も、そういった存在はすべて迷信である。罪なき者に罪を着せることは許されず、迫害者こそを罰すべし。
まごつく院長を男は鼻で笑った。
「悪魔っていうのは、へんなやつのこと。俺みたいに」
きたない男に触れたくなかったのか、くさかったのか。悪魔の男がおぞましかったのか。それらすべてが理由かもしれない。
お嬢様は身を起こすと、男から離れて一歩うしろに下がった。




