16 グレイフォードの光
白い花、黄色い花。ふうっと風がふきぬけると、いっせいに花びらが舞いあがった。
くちもとをほころばせてデイジーがジャンプする。頭の上をひらりひらりと舞う淡いピンク色の花びらをつかもうと、両腕をせいいっぱいのばしながら。
それでもやっぱり届かない。
デイジーはぷうっとほっぺたをふくらませた。
そうかと思えば、つぎの瞬間には挑むような笑顔。幼子ながらすでに気が強く、頑固な気質が透けて見える。
デイジーはふたたび大地を蹴った。
「デイジーもずいぶん大きくなりましたね」
うっすらと開けた瞳をよりいっそう細め、テレーズは言った。
おそらくほほえんでいるのだろう。口の端がわずかにぴくりと動く。
幸の薄さそのものといった、テレーズの薄いくちびる。乾いて、うるおいがない。どれほど蜂蜜を塗り込めても効果がない。
しっとりとうるおって見えるのは、保湿したそのときばかりなのだ。
妻の顔をのぞきこみながら、ジャスパーは「まったくな」とうなずいた。それから妻の視線の先を追いつつ、身をかがめる。車椅子の手押しグリップに肘をかけたかっこうだ。
ジャスパーの目線の位置が、妻テレーズと同じ高さになる。
あちこち跳ねまわる幼子を、ジャスパーはあらためて眺めた。
ジャスパーの口の端が、にやりと持ち上がる。
「おてんばなところは、ケイトにそっくりだ」
「ええ、ほんとうに」
テレーズは車椅子にもたれかけたまま、視線だけを夫にやった。
ジャスパーは妻より一回り以上歳上だ。
髪には白髪が目立つ。だが夫は、彼の若いころと変わらずたくましく頑強そのもの。いまだ活力にあふれて見えた。
テレーズはまだ若いこともあり、夫のような白髪は見当たらない。
向こう側が透けて見えるように細い、亜麻色の髪。ゆるく編み、うしろでひとつに束ねている。
ほつれ出た髪が風にふかれると、痩けて青白い妻の頬をかすめた。
身体に魂を留めておくほどの力が、ほとんど残されていないようだった。
ジャスパーとテレーズ。
仲睦まじい領主夫妻。彼らはキャンベルに属するグレイフォードの地を治めている。後継の子どもはいない。
領主夫妻の目前で無邪気に遊ぶ幼子は、彼らの子ではない。使用人の子だ。
名はデイジー。
執事長ロジャーと家政婦ケイトのひとり娘。名付け親は領主ジャスパー。
デイジーの両親は生後間もない赤ん坊を領主夫妻に差し出し、娘への名付けを懇願した。
夫妻が思案するさなか、ジャスパーの目に飛び込んできたのが、ヒナギクの花。別名デイジー。白い小さな花が緑の絨毯の上でぽつりぽつり顔を出し、風に揺れていた。
そういったわけで、赤ん坊の名がデイジーに決まった。
「ジャックとリナは、デイジーを可愛がってくれるかしら」
テレーズは視線を夫からデイジーへと戻した。
ジャスパーもまたデイジーへと目をやる。
「そりゃ心配いらねえだろう。キャンベル人なら誰だって、デイジーを可愛がらずにいられねえからな」
「そうね」
テレーズは満足そうに、夫の答えをかみしめた。
「ええ、そう。あなたのおっしゃるとおり。キャンベル人なら誰だって、デイジーを愛しく思うにちがいないわ」
デイジーはグレイフォードの大人たちに見守られながら、思う存分、花や虫とたわむれた。
父ロジャーに母ケイトは、デイジーのすぐそばに立って、我が子の成長に頬をゆるめている。彼らはデイジーが転んで泣き出したり助けを求めたりするまでは、手出しをしない。
ジャスパーとテレーズの領主夫妻は、すこし離れた場所から親子を眺めていた。日傘を掲げて領主夫妻のうしろに控えるのは、家令オウエン。
ジャスパーの長年の友人であり右腕でもある家令オウエンは、家政婦――という役職に就くにはずいぶん年若い――ケイトの父であり、デイジーの祖父だ。
あかるく晴れ渡った空。咲き誇る色とりどりの花々。萌える草木。花びらや葉を照らす白い光。深みと色調を変える影。一面の草原をふきぬける、水粒をたっぷりとふくんだ風。
繁みから飛び上がったヒバリが高らかにさえずり、空中から地表のひとびとへと、グレイフォードの春をふれまわっている。
テレーズはまぶたを閉じ、くちびるをわずかにふるわせながら息を吸い込んだ。それからとぎれとぎれのかよわい息を吐き出す。
「ジャックとリナはきっと、デイジーのいいお兄さんお姉さんになってくれる」
テレーズは毛織物の膝掛けに隠れていた手をゆっくりと引き抜いた。
毛織物の膝掛けでしっかりと覆われた、テレーズの萎えた両足。膝上には硬革の鞘に包まれたダガー。
人を殺傷することのできる無骨で剣呑な品だ。儚げなテレーズとのどかな景色、そのどちらにもそぐわない。
先日、ジャスパーの甥ヒューバートがグレイフォードに送って寄越したのだ。
かつてジャスパーがナタリーに買い与えたダガーだった。
鞘には文字が刻まれている。
当時の日付けとナタリーの名。それから新たな友情への言祝。
装飾性はなく、簡素で浅い彫り。
「ジャックとリナ。どんな子たちかしら」
テレーズは、刻印を指でなぞった。
「はやくふたりに会いたいわ」
外気にさらされたテレーズの手は、いまにも空に溶けてしまいそうだ。骨と皮。透けるように青白い。
ジャスパーは思わず妻の手をつかんだ。壊れないように、そっと包み込む。
あまりに細く、ちいさい。体温が伝わってこない。
「ああ、そうだな」
ジャスパーのくぼんだ目に涙がにじんだ。
「はやく引き取ってやろう」
「あなたは強いようで弱いひとだから」
テレーズは夫のふるえる手に目をとめ、ほほえんだ。
「私が逝ったあと。あなたが領主としての責務をすっかり忘れて、すぐにでも世を儚んでしまわないように。あなたには庇護すべき生命を預けていかなくっちゃ」
「そんなことなら、デイジーがいるぞ」
ジャスパーはぐしゅんと鼻を鳴らしながらも、どうにか反論した。
「ロジャーだってケイトだって、まだまだ一人前とはいえねえ。俺がしっかり見守ってやらなきゃならねえ。グレイフォードの領民だって領地だってもちろん……」
「おっしゃるとおりです」
ぐずぐずと言いつのる夫の手に、テレーズはおのれの痩せ細った指をからめた。
「それだから、あなたがあなたのすべき使命をきちんとまっとうできるよう、いまの私ができるせいいっぱいのことをするの。それがこのわがまま。ナタリーの子どもたちをグレイフォードで匿うこと」
――病がちで、誰かに迷惑をかけるばかりだった。
神より与えられた生命を生きる中で、何も成し遂げることのないまま生命を終えるのかもしれない。それが不安だった。
心に決めた誓いのために奉仕し、生命を燃やすような。そんな生き方ではなく。
いたずらに時間を浪費するだけの、虚しい人生になるのかもしれない。
そんなふうに考えていたこともあった。
テレーズは力をふりしぼってダガーをつかんだ。夫の手に握らせる。
「守るべき家族があれば、ひとは悲嘆に沈みこみすぎることなく、前を向いて生きていける」
そうつぶやくと、テレーズは転じて夫をからかうような、ことさら陽気な声をあげた。
「はじめは『やっかいもの』でしかなかった私のことを抱え込んで、そのうち私のことが大好きでたまらなくなっちゃうような。そんなお人好しのあなただったら、ジャックとリナという新しい『やっかいごと』を抱え込んでしまえば、泣いてばっかりなんていられないでしょう?」
鼻をすすったりうめいたり。
どうやらジャスパーは、妻の言い分に抗議する姿勢のようだ。
「だから私のわがままを聞いて。お願い」
あかるく大きな声を出すことに疲れたテレーズは、音量をさげつつも、ダガーをつかんだ夫の手ごと、どうにか包み込む。
「どれほどアルバート様やヒューバート様に阻まれようとも、ジャックとリナをここグレイフォードへ導いてください。ナタリーの子どもたちがこれ以上、中央政治に振り回されずにすむよう、あなたが引き取って」
ジャスパーを遺していくことに不安がないわけではない。
それでもジャックにリナという子どもたちが、ジャスパーの新たな家族となってくれるのならば。
これから先、テレーズ自身が愛する夫を支えていくことはできない。
愛、光、希望。そういったことを夫に与えられるのは、死後のテレーズではない。思い出は増えない。テレーズが夫に遺せることは限られる。
だからといって、テレーズが夫になにも遺せないというわけではない。
「俺の嫁さんは、初めて会ったときから気遣って遠慮してばっかりで、わがままのひとつも言っちゃくれねえ。そんなに俺が頼りねえのかと不甲斐なく思っちゃいたが」
ジャスパーはダガーをつかんだ手とは逆の手で、ほとんど力の抜け落ちた妻の手をすくいあげた。
「ここにきて、とんでもねえわがままを言うんだからな」
「グレイフォード領主ジャスパー・ジョンソン・キャンベルの妻として」
テレーズは消え入りそうな声で、それでもくすくすと笑った。
「わがままのひとつでもあなたに言わなくっちゃ、あなたの妻としての使命を果たせないもの」
「そりゃそうだ」
ナッツを鼻の穴につまらせたような、のどの奥に痰をからませたような聞き苦しい声で、ジャスパーは請け負った。
「俺の可愛い嫁さん、『グレイフォード領主夫人』ってな、つまらねえ肩書きだけじゃねえ。おまえさんはグレイフォードの磁器生産流通を完全に軌道にのせることまでやってのけた豪腕夫人なんだぞ。このまんまじゃ俺は、可愛くて才気あふれる嫁さんにぶらさがっただけの甲斐性なしだ。おまえの夫として、俺にもすこしくらい見せ場がなくっちゃな」
ジャスパーとテレーズ。グレイフォード領主夫妻の会話では、ふたつの言語が行き交う。
古キャンベル語とフランクベルト語。まぜこぜだ。
共通語であるフランクベルト語は、その言語作成にあたって古キャンベル語をも基にしていたため、ふたつの言語が交じり合うことに不自然さはほとんどない。するりとなじむ。
それでいて、彼らの会話は秘密の暗号めいて聞こえもした。
夫婦ふたり。それからふたりにごくごく近しいひとびと。たったそれだけ。
領主としての公務から離れた領主夫妻が交わす夫婦の会話だけは、領民に広く開かれた地グレイフォードにあって、めずらしくも限定された領主一家の秘密。そんなふうに。
ジャスパーは手押しグリップを握り、ゆっくりと車椅子を前へ押し出した。
進路は領主館。
家令オウエンが日傘を掲げながら、領主夫妻のあとを追う。日差しをはじく白い日傘が、風にあおられて揺れた。
「ナタリーに会えないことはさみしいけれど、彼女の力になりたいわ」
かぼそくもあかるい声が風にのって聞こえてくる。
かと思えば返ってくるのは、野太くもあきらかにがっかりと落胆した声。
「なんだ。俺じゃなくてナタリーの心配か」
「あら。やきもち?」
からかい声に応えるのは、いかにも真剣な声。
「おうよ。やきもちだ。俺だけじゃねえぞ。オウエンだって、それから磁器窯の親方どもだって、こぞっておまえの関心をひこうと気張ってるんだからな」
「まあ嬉しい。でも、どうしたってナタリーは特別なの。だって彼女は、愛するあなたのご先祖さまなのだから」
「そう言われちゃあな。いや、でもそうか。俺の先祖か。ううん、先祖かあ。奇妙な気分だな」
領主夫妻の会話、その声が、幼子と両親からすこしずつ離れていく。
やがて領主夫妻の姿が見えなくなると、そこに残されたのは轍。車椅子の車輪によって横倒しになった緑の葉。
踏まれた草が、そのまま萎れることはない。雨風にさらされて、ふたたび力強く立ち上がる。
デイジーの笑い声とヒバリのさえずりが、グレイフォードの空に溶けていった。




