15 魔女にも獅子にも
退室するレオンとナタリーのうしろすがたを見送り、アルフレッドはソファーにどっかりと腰かけた。
「あーあ。疲れた」
「それはまさしく、あちらの台詞でしょうね」
ヒューバートがからかうように返す。
「そりゃあそうだろうけど、僕だって疲れるんだよ」
アルフレッドはソファーの背もたれにぐったりと頭をのせた。
織物の金糸とアルフレッドの黄金の巻き毛が重なり合う。
ソファー全面に張られたつづれ織り。青を主とした生地に、絵画のように凝ったさまざまな意匠が描かれ、金糸で縁取られている。
室内を飾る質素堅実な調達品のなかで、ソファーだけが浮き上がって見える程度には華美だ。
アルフレッドは両腕を広げて、ソファーの背もたれにだらりと垂らした。
しばらく目をつむって呼吸を繰り返すと、のろのろとした仕草で襟に巻きつけた絹織物をゆるめる。
それからけだるげに挙げた手を、ヒューバートに向かって前後に力なく振った。
「あの医者もどきと顔を合わせると、どうにも『記憶』が流れ込んでくるみたいなんだよね」
アルフレッドの手がぱたりと下ろされる。
「まあ、初顔合わせとなった今回限りのことかもしれないけどさ」
アルフレッドの言葉に、ヒューバートが身を乗り出す。
「それは」
「うん」
アルフレッドはころりと首の向きを変え、まじまじと覗き込んてくるヒューバートに、へらりと笑った。
「今後彼と対面するには、もうちょっと慎重にならないといけないようだ」
それまでの軽口をいっさいやめ、ヒューバートは眉間にけわしいしわを刻む。
アルフレッドに覇気がない。
どんな些末なことにでもちょっかいを出すどころか、一見なにもないところをつついてなにかをほじくりだすような彼が、余計な一言をはさまない。ずいぶん疲れているようだ。
ユーフラテスは無言でキャビネットの扉を開け、ことさら強い酒精の果実酒を手に取った。
瓶の栓を抜いてサイドテーブルに置いてから、おなじくサイドテーブルに置かれた氷桶に手をつっこみ、レモンシャーベットの盛られたグラスを取り出す。と、そこへ果実酒をそそいだ。
透明なグラスの中でレモンシャーベットの小山が、ようやく出番がきたと嬉しそうにしゅわしゅわと音をたてて果実酒を浴びている。
輪切りのレモンとレモン果汁にはちみつを合わせたシロップを、地下の氷室で凍らせたレモンシャーベット。
氷桶に入れていたとはいえ、氷室から取り出したあとに室内で放置された時間経過が長かったせいで、ほとんど溶けている。そこへ果実酒を注げば、あっというまにちいさな氷粒の残るミクスト・ドリンクのできあがりだ。
「ありがとう」
アルフレッドはソファーに沈み込んだまま弟からグラスを受け取り、まをおかずに飲み下した。
シャリシャリとした氷粒が舌に残ったかと思えば、すぐさますうっと溶けていく。のど越しもひんやりと心地がいい。
巻物で覆われていない、アルフレッドの白く細いのどが大きく動く。
グラスの中身を飲み干した兄が一息つくのを見届けると、ユーフラテスはヒューバートと自分のための果実酒をグラスにそそいだ。もちろんレモンシャーベット添えのグラスにだ。
◇
現王家の祖には、もちろんレオンハルト二世の嫡出子がいる。
その一方。現在のキャンベル家は、レオンハルト二世の私生児を祖に持つ。
さかのぼること百五十年余り。
魔女ナタリーは、ひそかに子孫を残した。
フランクベルト王レオンハルト二世と、キャンベル辺境伯ロドリック唯一の嫡出子ナタリー・キャンベル。
祝福されぬ恋人たちのあいだに、子ができた。
フランクベルト宮廷人の目に触れぬよう、ナタリーは男児を産み落としてすぐに、父辺境伯ロドリックへ預けた。
赤子の名はジェイコブ。
フランクベルト家の男児として、古フランクベルト語風にヤーコプと名づけられたのだが、そのような発音で呼ばれることはなかった。
対外的に、ジェイコブは祖父であるロドリックの嫡子と公表され、キャンベル辺境伯を継いだ。
そうして血をつないできたキャンベル家。
キャンベル家は現代でも、魔女を擁している。
フランクベルト王家がもっとも欲する血脈、キャンベル家直系。その娘。
フランクベルト王太子アルフレッドがもっとも信を置く友、ヒューバート・キャンベル。その妹。
フランクベルト王太子アルフレッドがもっとも情をかたむける弟、ユーフラテス。その婚約者。
それが現代の魔女、ネモフィラ・キャンベルだ。
ネモフィラが魔女として開花したのが、おおよそ七年前。
誰にも知られず、本人ですら気がつくことなく、キャンベル家の旧き魔女の血をひそかに受け継いでいたらしいネモフィラ。
当時のネモフィラは九歳。
それに対して、彼女の婚約者である第二王子ユーフラテスは、まもなく十一歳の誕生日を迎えようとしていた。
幼い王子は、これまた幼い婚約者を王宮の庭園に招いた。
婚約者同士、交流を重ねて懇親を深めるのが目的の定例茶会だ。
その婚約者との定例茶会にて、ネモフィラは突如として、魔女の能力に目覚めた。
フランクベルト家とキャンベル家とのあいだで、長らく秘匿としてきた史実を掘り起こしたのだ。
それがため、王家にとって非常に都合の悪い過去が、衆目の集う表舞台に引きずり出された。
過去視と未来視。
それがネモフィラの発現させた能力だ。
発現当時、本人の意思は介在しなかったようだが、ずいぶんな騒動を巻き起こしてくれた。王家は対応に追われた。
純血主義強硬派の勢いが増し、それまでアルフレッドとは表立って対立することのなかった純血主義穏健派も不穏な様子を見せた。
この騒動はアルフレッドにもうひとつ、深刻な問題をもたらした。
第一王子アルフレッドを支持する派閥のうち、最も多くを占める思想派閥。多民族主義者たちだ。
彼らの思想、その正当性が揺らいだ。
彼らが多民族主義を唱える根拠のひとつに、『先見の明を備えた賢王レオンハルト二世』という偶像がある。それがもろくも崩れ去り、騒乱状態に陥ったのだ。
そういった騒動のために、一度はナタリーを取り逃がした。
本来の予定であれば、ジャスパー・ジョンソン・キャンベルのもとへ、早期にヒューバートを向かわせるはずだったのだ。
王都中が混乱に見舞われた、そのほんのすこしまえ。
ようやくアルフレッドのもとに知らせが届いたところだった。
モールパの地で百五十年の眠りから目覚めたナタリーが、ジャスパーの治めるグレイフォードに逃れた、と。
アルフレッドが手を焼くモールパ家嫡男ウジェーヌの謀略だった。
彼の企みをアルフレッドに知らせたのは、彼の弟。モールパ家次男オノレだ。
知らせを受けたアルフレッドは、急ぎヒューバートをグレイフォードへ派遣せんと手筈を整えた。
だがちょうどそのころ時機悪く、王宮で催された婚約者ユーフラテスとの定例茶会にて、ネモフィラがくだんの騒動を巻き起こしてくれた。
――しかし、まあ。
アルフレッドは気を取り直す。
最終的には現代の魔女をも、おのが陣営に取り込むことができた。
ネモフィラの魔女としての能力が、かつてのヴリリエール家同様、信憑性のない、実用性のない力であろうとかまわない。
未来視がもたらす情報を証明することはむずかしい。
それだからアルフレッドは、ネモフィラの能力にはさほど期待をしていなかった。
ネモフィラの利用価値は、魔女としての能力ではない。
重要なのは、現代の魔女ネモフィラにつながる存在だ。
ネモフィラの兄ヒューバート。
ネモフィラの婚約者ユーフラテス。
そして、ネモフィラの祖先ナタリー。
そうかと思えば、現代の魔女ネモフィラが百五十年前の魔女ナタリーの現在の在り処を吐いた。
アルフレッドが期待していなかった、ネモフィラの魔女としての能力。それこそが、百五十年前の魔女ナタリーを見つけ出した。
ようやくナタリーを王宮内へと引き込んだ。獅子王の呪いを解く鍵を手に入れた。
ネモフィラが引き起こした、わずらわしい騒動も。ウジェーヌが導いた、小賢しい逃亡劇も。
どちらについても、いまとなれば寛容な心地でいられる。
アルフレッドは重い頭をごろりと横にかたむける。
窓からさしこむ光は、いまだに白く明るい。いったいいつになれば、普段のフランクベルトらしい曇天にもどるのだろう。これではまるで、太陽輝くリシュリューのようではないか。
アルフレッドは目を細めた。
まぶしさを疎んじながらも、窓と窓のあいだにある文机を見やる。
幾冊も積み重ねられた本。そのうちの一冊。『獅子に魅入られた男』
アルフレッドは、かの本を翻訳するのと同時に題をつけた。
ヴィエルジュ・リシュリューは各地に散らばって伝わる民話を収集し、物語としてわかりやすいよう整理し編纂した。だが彼は、この古い民話に題を与えなかった。
ヴィエルジュ・リシュリューがもし題をつけようとしたのであれば、どのような題をつけたのだろう。
題をつけなかったということが、その答えであるのかもしれない。
それに対して、アルフレッドがつけた題。『獅子に魅入られた男』とは。
――ばかばかしい。
獅子王の呪いとやらを、畏れてでもいたのだろうか。まさかこの自分が。
シャーベットで冷え、ちいさな水滴をまとわせるグラスをのぞきこむ。
グラスの底には、果実酒とシャーベットの混じり合った液体がまだほんのすこしだけ残っている。
アルフレッドは湖面に顔をうつすかのように、グラス底のわずかな水面に向かってほほえみかけた。通称『光の王子』らしく、慈愛に満ちた、やさしげな顔つき。
水面に彼の顔はうつらない。
シャーベットに混じる果肉やらなにやらでにごっているし、そもそもわずかな水量では水面が鏡の役目を果たせるはずもないのだから、当然だ。
魔女にも獅子にも。ほかのだれにも、魅入られることなど許すものか。
アルフレッドはグラスを持ち直した。グラスの底がさかさまになるほど大きく傾ける。
グラスの底にたまった残骸は生ぬるく、彼の体を冷やすことなく、のどの奥へと流しこまれた。




