1 青い血
「もうあと少しで、日が暮れます。足を取られないよう、気を付けて帰るんですよ」
本日最後の患者である初老の婦人の手を取り、レオンは帰りを促した。
婦人は曲がった腰をさらに曲げ、レオンに礼を言うと、ゆっくりと帰路を辿る。
茜色に照らされた道の向こう。丘の遠くへと、丸まった背中が遠ざかっていく。
その後ろ姿をレオンは見送ると、診療所兼自宅であるボロ小屋に戻った。
出稼ぎに出た旦那を待つ女と、その子供達と。そして老人しかいない、若い男衆の絶えた村。そんな寂れた村にあるたった一つの診療所。
それがレオンの住まう場所。
とはいえ、レオンは本当のところ、医者ではない。
医者であると名乗れば、詐欺を働いた無法者として捕えられてしまう。
税を取り立てることに生きがいを見出す領主にすら、忘れ去られているようなこの村。罪を取り締まりに訪れる者がいるとも思えないが。
レオンは医者のなり損ないだった。
幼い頃から、レオンの胸には輝かんばかりの夢と未来と、意欲に溢れていた。
若くほとばしる情熱を胸に抱き。意気揚々、レオンは王都の医術学校へと門を叩いたのである。
そして程なく、レオンは医術学校を去った。
人を救いたいという純粋で真っすぐな、ひたむきな思いは折れ。医術業界に疑いの目を持ち。不信感を拭えず、レオンの未来の展望は途絶えた。
レオンはただ、学びたかった。
人を救うために。必要とする人の元へ、癒しを、はげましを。あるいは術に薬を施すために。
しかし王都の医術学校がレオンに与えようとする知識は、行使するのに制約を伴うものであった。
医術学校の授ける医術は、青い血がすべての前提としてあった。
旧き家の強大な力と領地と財産を持つ者たち。諸侯には青い血が流れている。
それは肌の白い貴族達の、透けて見える静脈の色を言うのではない。
この国の大貴族には本当に、青い血が流れている。額面どおり、青い色の血が。
建国の暁に、王家へ忠誠の誓いをたてた諸侯が脈々と受け継いできた青い血。古の契約と、その証。
新興貴族にはもはや流れない血。
今の世、既に古の契約を施す術は失われた。
それ故に、新興貴族達は必死になって、尊く旧き血を一族に迎えようとする。
そして由緒ある旧き者は、そんな新興貴族をせせら笑う。
旧くからの名以外を手元に置かず、新興貴族の持つ財を求める、そんな斜陽の旧き者達だけが、新興貴族と泣く泣く交わる。
旧き者としての矜持を売り渡したと、嘲笑われることに耐えながら。
そうしてどこかで薄まりながらも、青い血は保たれてきた。
貴族と平民とを分ける青い血。
しかしながら尊き青い血を守るため。と、純血主義がまかり通ったのは一世代前まで。
純血主義を死守することの叶った数少ない大貴族以外、ほとんどの王侯貴族の青い血は薄まった。
何より外交を重視した政策により、長きにわたって他国の王家と交わり続けた現王家の血は、もはや青くなどない。
そしてそれらを補っていた魔術師が激減したことで、王家に青い血が流れていると見せかけることすら叶わない。
それだから、純血主義は実質的に成り立たなくなっていた。青い血を未だ色濃く受け継ぐ大貴族は、王家にとって邪魔な存在にもなりつつあった。
青い血を王家に取り戻すためだけに、大貴族を優遇するわけにはいかない。そんな足元を見られたかのような、王が大貴族に遜るような真似はできない。
すべからく貴族の上に立つのが王であり、その逆は決して許されない。
青い血は、もはや王家への忠誠の証ではない。青い血は、王家にも貴族にも、既に無用のものである。
王が青い血を不要のものと声高に宣言したことも、記憶に新しい。
そんな中で青い血を前提とした医術学校は、時流に反していた。
しかしながら、この国の医術を支援するのは、未だ純血主義を誇る大貴族達。
今や何の力もなくなった魔法を、これまで主たる支援としてきた王家。そのために医術の世界には、今一歩介入出来ないでいた。
純血主義を訴える大貴族と、それらを否定し覆したい王家の対立。
それは医術においても露わであり、その争いに身を置くことを、レオンはよしとしなかった。
レオンはただ、学びたかったのだ。
分け隔てなく、求める者へ与えるために。人を救うために。癒すために。病や怪我に苦しむ誰かの役にたつために。
ただそれだけだった。
だからレオンは医術学校で学ぶことを諦め、この国の医師として正式に認められることを放棄した。
他国でならば、もしかすれば学べる機会があるかもしれない。
レオンがその道を模索しなかったわけではない。
学びたかった。
レオンには未だ医術への情熱と、貪欲な知識欲があった。それでも諦めたのは、年のはなれた義理の弟を放って、国を出るわけにはいかなかったからだ。
血のつながらない弟は、レオンが初めて出産に立ち会い、そしてとりあげた赤子でもあった。
レオンが医術学校へと王都へ赴き、父が亡くなってしばらくしたのち。そのほんの数年の間に、今は亡き父の後妻であった継母が、どこぞの男と子を為した。
それがレオンのたった一人の弟。
王都から戻ったレオンに、継母はお産に立ち合い、赤子を取り上げてくれるよう懇願した。レオンは戸惑いながらも、了承した。
レオンは人を救いたかったのだ。
継母は、産み落とした赤子を見ることもなく、命を散らした。そうして残された、レオンのたった一人の家族。
そんな生まれたての命を抱えて、国を渡るような長旅はおろか、落ち着いて学びの席につくことなど、出来るはずもなかった。
レオンがこれから挑むのは、赤子の世話という未知の領域。
レオンは命を救いたかったのだ。
目の前に輝く、美しく尊い命を犠牲にしてまで、己の知識欲を満たしたかったわけじゃない。
だからこれでよかった。
レオンは寂れた村の医者もどきであることに満足していた。
決して正式な医者など来ないであろう、寂れた村。レオンと赤子の弟を優しく見守ってくれる、とても優しい村だった。
だからレオンは、青い血など関係なく、必要とされるときに、必要としている全ての人達に、己の出来うる限りをもって臨むことのできる、寂れた村の医者もどきであることに、とても満足していた。
新しい知識は遅々として増えない。レオンは一人、ひっそりとゆっくりと研究を続け、また臨床から学び続けた。
成功例は誰からも示されず、手探りで容体を看ては悩み、なんらかの解を施す。それをひたすら繰り返す日々の中、己の失敗が患者を害することもあった。
誰もレオンを責めることはなく、誰もがレオンに感謝だけを伝えた。
レオンは己の罪に打ちのめされそうになりながらも、それでも寂れた村の、たった一人の医者もどきとして、誇りをもって立ち続けていた。
そんなレオンの姿を村の女たちにあやされながら眺めていた赤子。
血のつながらない、けれどもレオンに残された、たった一人の大事な家族である弟。
レオンは弟をジャックと名付けた。