10 ふたりのジークフリート(3)
「レオンハルト二世の兄、ジークフリートか」
アルフレッドは『ジークフリート』の名を持つ弟の顔をしげしげと眺めた。
兄の言動を受けたユーフラテスが、ますますいやそうに顔をしかめる。
その表情がナタリーの感傷を呼びおこした。
ナタリーがレオン――医者もどきのほう――に、よけいな一言をつけくわえ、からかったとき。そういうときのレオンが、あんなふうにいやがった。
それから村のわんぱく坊主ニールがリナへと寄せていただろう、その淡い恋心について、ナタリーが指摘したとき。そういうときのジャック。
ほかには、ナタリーがスクランブル・エッグにディルをまぜたとき。ハーブ水のメインをタイムにしたとき。そういうときのリナ。
レオンにジャックにリナ。
つい先日まで、ゴールデングレインでともに暮らしていた家族。
素朴で率直で、かざることのない、温かな家族。
平和でおだやかな愛に満ちていた。
いさかいやすれちがいはあった。それでもいつかきっと、そういった衝突は減っていき、家族はうまくまとまったはずだ。
角ばった石が上流から下流へと流されるうち、いつしか小さくまるくなり、なかよく川底にとどまるように。
目の前の男。
いかにも傲慢そうな、この男が襲来しなければ。
よりにもよって、そんな男のふるまいから、ゴールデングレインの家族を思い出すとは。
胸の奥におさめた激情がよみがえる。頭がぐらぐらと煮えたぎる。
同時に、手と足の指先が急速に冷えた。背筋がぞっとする。もし、家族を失うことになってしまったら。
リナ。
ナタリーによく似た勝ち気さ。年齢以上にこまっしゃくれて口が達者で、体は年齢以上に小柄。
へらず口をたたくリナの頬を両手でつつみこめば、もちもちとすべらかな肌が手のひらに吸いついた。
胸にじんわりと伝わる、リナのぬくもり。
ジャック。
妹のリナに気圧されがちで優柔不断。あちこちとびはねた赤毛ばかりが自由気ままで、気質はまじめなレオンゆずり。
お兄ちゃんだから、男の子だから。と、ぐっと我慢するジャックの背を抱きしめてやれば、ナタリーの腕のなかで、てれくさそうにくすぐったそうにモゾモゾさせた。
ひょろひょろでうすっぺらい、ジャックの背中。
レオン。
おだやかで誠実で頑固。いつまでたってもまったく煮えきらない。
それでいて、ナタリーが耐えがたい孤独に涙を流したとき。行き場のない怒りと不安とで、手のつけようもないくらいに荒れ狂ったとき。そういうときにはかならず、胸を貸してくれた。
ナタリーの悲しみや怒りを吸いとってくれた、レオンのあたたかな胸。
家族で食卓を囲んだにぎわい。笑い声。泣き声。さけび声。
つぎつぎに思い出される。すべてがナタリーの頭と体とに刻みこまれている。
湯あみの際にダガーを奪われていなければ、いまにも斬りかかっていたところだ。
だが、それではいけない。
感情の赴くままに動いたことで、ナタリーは失敗したのだ。二度も。
百五十年前、蛇の奸計にはめられたこと。
そしてもちろん、先日のこと。
ナタリーは釈然としないような、悔しいような心地で、目の前の兄弟を睨んだ。
現在の幸せな日々をナタリーから奪った兄弟。百五十年前に愛したレオンハルトが、ナタリーの見知らぬべつの女ともうけた子孫。
アルフレッドとユーフラテス。
顔のつくりが似ていても、体格や表情がちがえば、印象が変わるものだ。
百五十年前の兄弟、弟レオンハルトと兄ジークフリートもそうだった。彼らもまた顔のつくりは似ていた。だが、ひとびとへと与える印象はまるでちがった。
そういえば顔をいろどる額縁も、過去の兄弟と似たような組み合わせだ。
レオンハルトとアルフレッドが黄金の巻き毛。ジークフリートとユーフラテスが淡くくすんだ金の直毛。
瞳の色はちがう。
百五十年前の兄弟、弟レオンハルトと兄ジークフリートの瞳は碧く、彼ら兄弟がならべば、一対の人形のようでもあった。
現代の兄弟、兄アルフレッドのほうはあかるい緑色、弟ユーフラテスのほうは野性的な琥珀色の瞳をしていて、そこでもまた受ける印象が異なる。
礼儀をかなぐり捨て、いっさいの遠慮なく検閲のまなざしを向けるナタリーに、兄アルフレッドは目をまるくした。
弟ユーフラテスは腕を組んだまま、むっつりとナタリーを睨み返している。
兄は意地の悪いほほえみを浮かべ、弟の胸元に留まる金細工をくすねた。それから兄自身が身につけていた留め金をはずす。
左右の横顔を見合わせる、対の金獅子。兄の金獅子が右向き。弟の金獅子が左向きだ。
留め金をはずそうと生地が引っぱられたことで、兄弟の首元に巻かれた白の絹織物の結び目は、ほんのすこしだけゆるんだ。
「レオンハルト二世の兄、ジークフリート。彼はモールパ家の祖だったね」
アルフレッドは左の手のひらにのせた獅子の留め金を右の指でつつき、くすりと笑った。
「彼の『固有魔法』とやらはたしか、意識の分裂。そしてそれらを操っては、あらゆる場所へと潜りこむことなのではなかったかな?」
これにはナタリーが目をまるくする番だった。
「ええ、おそらく」
ナタリーは当惑し、ためらいがちにうなずく。
「そういうふうに聞いたことはあるけれど、でも、実際には知らないわ」
ジークフリートが彼の固有魔法をナタリーの面前で披露したことはない。
レオンハルトとて、なにも教えてはくれなかった。もちろん、ジークフリートの妻ミュスカデも、その扈従マルグリットも。
固有魔法を誇示するかごとくに人前でさらす行為は、愚か者のすること。
それは、ナタリーがフランクベルト宮廷に足を踏み入れて初めて知ることのひとつだった。
キャンベルの地では、なにも考えることなく騎士たちのまえで意気揚々とおのが固有魔法を見せびらかしていた。
それだからジークフリートの固有魔法についても、ナタリーは噂話を聞いたことがあるだけだ。
他人を蹴落とすことに夢中の、信用ならないフランクベルト宮廷人たちの噂話。
「彼の固有魔法について伝わる話が、真実かどうかは不明だけれど」
アルフレッドは金獅子の留め金を弟の襟元に刺した。
獅子の横顔は右向き。さきほどまで刺していたものとは、顔の向きが反対だ。
「真実であったのならば、テスと僕とで、初代モールパ公爵ジークフリートの魂が分裂して転生していても、きっとおかしくはないね」
アルフレッドは、あまったほうの留め金をすばやく襟元に刺した。
左向きの金獅子が光を浴びてきらめく。大きく口を開けた獅子の横顔は、兄の喉仏に食らいつき噛みちぎらんとしているかのようだ。
「天使のジークフリート殿下に、悪魔のジークフリート殿下……」
ナタリーはうわ言のようにつぶやいた。
かつてレオンハルトが、そんなようなことを言っていた。
「兄上は慈悲深い天使の顔と、無慈悲な悪魔の顔をじょうずに使いわけるんだ」と。
秘密の話を打ち明けるように、いたずらっぽく、おもしろがるような口ぶりで。
「なんだい、それ」
それまでにこにこと機嫌よさげであったアルフレッドが、とうとう眉をひそめた。
 




