8 ふたりのジークフリート(1)
リシュリューの入り江でリシュリュー侯爵から譲り受けた本を手に、アルフレッドが初めて奇妙な声に取り囲まれたとき。
それはこの世に生を受けて以来、アルフレッドの体内でひそかに眠っていた、獅子王の呪い。その種子が芽吹いた瞬間だった。
同時に、歴代獅子王の苦悩に満ちた記憶の断片が、アルフレッドの眼前に開けた起点でもある。
今より九年ほど前のことだったろう。
あのときにはまだ、現代の魔女ネモフィラ・キャンベルがキャンベル家の『魔女の血』を発現させていなかった。
百五十年前の魔女ナタリー・キャンベルを前に、アルフレッドは在りし日々を思い返す。
彼の前に立つ魔女は、ずいぶん困惑したそぶりだ。
王宮に到着して早々に湯あみを求められ。うながされるままに飾りつけられ。いかなる状況下にあるのか把握もできないまま、この部屋に連れてこられた。
室内をくまなく。それからアルフレッドの頭のてっぺんからつまさきまで。
魔女の無遠慮な視線があちこち巡らされているところを見るに、おそらくそんなところ。
魔女は漆黒のドレスを身にまとっている。事前にアルフレッドが指示したとおりだ。
だが同腹の弟ユーフラテスは、魔女に対してろくな説明もしてやらなかったにちがいない。
――テスはときおり、びっくりするくらいものぐさだからなあ。
あるかなきか。アルフレッドはわずかな同情を魔女へと寄せた。
アルフレッドの指示した仕事で、弟ユーフラテスが大きなヘマをすることはない。十年ちかく前であればともかく、すくなくとも今は。
けれども弟が不要であると判断したり、乗り気ではない内容については、いまでも勝手に、ばっさりと省いてしまう。口数もすくない。
めずらしくよくしゃべったかと思えば、弟の口をついて出るのは皮肉ばかり。愛想がいいとは決して言えない。
――まあ、いいんだけどね。こどもたちはともかく、魔女ともうひとりは連れてきてくれたし。
目の前の魔女とはべつの、もうひとりの客人の死んだような寝姿がアルフレッドの頭によぎる。
停まった荷馬車のそば、担架で運び出されていた小柄な男。
そのとき馬車寄せの見える四階の部屋にいたアルフレッドは、そとの騒々しい様子に気がつき、窓ぎわに寄った。
規則的な凹凸を繰り返す列柱や大きくせり出したバルコニー越しに、荷馬車が見えた。
うすよごれたふうだが、なじみのある荷馬車だ。
フランクベルト王宮には市場がある。
庭園内の一部、市場として区画された場所があり、そこには軒並み店が並んだ。
出店にはおのが出自を証明し、場所代を支払う必要がある。
出店権の取得と更新のためには、毎年申請し、許可を得なければならない。その手続きは煩雑で厳格だ。
とはいえ、王宮内に住む王侯貴族相手に商売ができることは、なによりの特権。商人たちはこぞって出店権を求めた。
王宮市場は、宮殿外の市場とはちがう活気があった。
平民ばかりの市場では、スリや悪質な押し売り、詐欺が横行していたが、王宮市場では許されない。
商品の質は高く、宮殿庭園であるから当然、治安もいい。きたならしい孤児もいない。
宮廷人は安心して市場を楽しむことができた。
そういった市場で出店を許された商人たちが、商品の搬入のために荷馬車をよく用いたのだ。
それだから、うすよごれた荷馬車は、とくべつ目新しいものではない。
王宮になじみがないのは、荷馬車ではない。荷馬車そばにいる人物だ。
豆粒大の健康そうな女と、同じく豆粒大のぐったりとした怪我人。
健康そうな女が百五十年前の魔女。
怪我人のほうは、取るに足らない平民。医者もどきだ。
怪我人は異腹の弟エドワードに任せた。かりにもオルレアン家の血を引いているからという理由で。
だがエドワードは、オルレアン家の先導する医術学校で修学したことはない。興味もなさそうだ。
すぐさま退学したとはいえ、一度は医術学校に入学し、これまで医者らしくふるまってきた怪我人とはちがう。
エドワードに医術の心得はないし、傷ついた人々を救いたいといった慈悲心や高尚な理念も、持ち合わせていない。
だいたい、エドワードがアルフレッドの役に立ったことなど、これまでにあったろうか。
率直に言ってしまえば、エドワードの存在そのものがわずらわしい。エドワードもアルフレッドについて似たような心境だろう。
――エドのことだから、どうせなにもしていないのだろうな。
怪我人の安否が気がかりながらも、アルフレッドはひとまず目の前の魔女に取りかかることにした。
どう料理しようか。
アルフレッドはじっくりと魔女を眺めた。
と、そこで弟ユーフラテスが訴えかけてくる。目の前の魔女が百五十年前の存在であり、現代の常識には通じていないだろうことを。
兄から魔女をかばおうとしているのだろう。お優しいことだ。
アルフレッドは必死なそぶりの弟がおかしくなった。笑いながらふらりと前に進み出る。
魔女に近づいていけば、途中までうっとりとこちらを見上げるようだったのに、あわてて視線を床に落とした。
すこしばかりつまらなく思いながらも、アルフレッドは魔女の下半身に目を留めた。
スカート部分のベルベットドレープ。黒い生地の上で、ちらちらと揺れ惑う光がある。
魔女の腰に巻かれた金鎖だ。魔女が身じろぎするたびに揺れ、つい目が向く。
それ以上にアルフレッドの関心を引いたのは、ぴんとはりつめた曲線。くびれた腰。突き出たまるい尻。ぴっちりとした太もも。
煽情的だ。
魔女の脚は、がりがりに痩せ細った、あるいはだらしなく肥え太った貴族女性とはちがい、むっちりとなまめかしい。男を蠱惑する。
不行状な好色家が娼婦でも連れ込まないかぎり、王宮内ではほとんど見かけることのない毛色だ。
男たち垂涎の肉感的な体つき。
そんな魔女の肢体をよりいっそう際立たせるのが、漆黒のドレスだ。アルフレッドが用意させた。
想像どおりだ。魔女によく似合っている。
アルフレッドはじっくりと観察する。
魅惑の脚を包むのは、重みのある肉厚なベルベット。しっとりと湿ったような艶。
落ち感のあるドレープは腰から太ももにかけてぴったりと沿い、床に触れたところで裾が広がる。
そのさまはまるで、魔女が漆黒の沼地から姿をあらわしたかのようだ。ぞっとする。
ともすれば露出以上に淫靡なのが、胸元から顎下までせりあがり、素肌を覆う黒のレース。
繊細な編み模様を透かして、きめこまやかな白い肌が見える。呼吸によって、魔女のゆたかな胸がやわらかく挙上するさまも。
ぴったりと二の腕をしめつけるのは、スカートと同素材のつけ袖。肘から袖にかけて大きく広がっている。
袖の下からは、質感の異なる黒がのぞく。毛織物のカフスだ。ゆるく編まれた薄手の毛織物に肌色が透け、くしゅくしゅとたるんでいる。
それから手首に巻きつけられた、ドレスと同素材の黒く細いベルベットリボン。こちらはカフスがずり落ちないよう、リボンで留めているのだろう。
腰まわりを一周して交差する金鎖。その交差した中央部分にはめこまれた宝石が、大粒の黒曜石だ。小粒の真珠に取り囲まれていて、宝石はちょうどへそ下あたりにある。
宝石から下にひとすじ、金鎖が垂れる。魔女のわずかな身じろぎにつられ、金鎖は振り子のように揺れた。
金鎖の先には小粒の宝石。真珠と黒曜石。
二種類の宝石は異なる輝きでアルフレッドの注意を引いた。
純粋無垢な純白と、深淵なる闇へといざなう漆黒。乙女と魔女とが交互に流す涙のようだ。股のあいだからしたたり落ちる涙。
頭囲にも腰に巻いた金鎖と同様の金鎖がぐるりと一周し、額中央にも同じく、真珠と黒曜石。ひとすじのしずく。
ドレスも宝飾品も、すべてが美しい。
匠の技で意趣を凝らした一級品だ。と同時に、すべてが今風ではない。ずいぶんと古めかしい。
百五十年前の衣服が、実際にこのようであったのか。それはわからない。
たとえちがっていたのだとしても。アルフレッドの目に映るナタリーの姿は、まさしく百五十年前の魔女らしく見えた。
百五十年前の神秘と叡智。それから男の本能をもっていては抗いようのない、原始の官能が匂ってくるようだ。
だが魔女の発した言葉は、吸引力のある外見とは真逆の印象をアルフレッドに与えた。
直感のままに「ジークフリートの魂が、ふたつに分かれている」などと口走っている。なにかしらの思考をめぐらせた様子もない。
到底、演技とは思われない。
腹芸を得意としない気質なのだろう。いかにもキャンベル家らしい。
「ジークフリート?」
今しがた率直な疑問が生じたばかり、といった純粋そうな顔つきで、アルフレッドはナタリーにたずね返した。
「きみの言うジークフリートとは、いったい誰の持つ名を指しているのかな。レオンハルト二世の同母兄? それともテス?」
「え? テス? テスって――」
ナタリーはとまどい、それから背後に立つユーフラテスをちらり。すばやく視線をやった。
「もしかして彼のこと? ユーフラテス殿下、と名乗られていたわよね」
困惑したように指先をくちびるに当てたり、おろした黒髪のなかに手を突っ込んだりしながら、「魂は、ええ。そう。ジークフリート殿下と似ているけれど。でも」などと、もごもごつぶやく。
ひとりごとなのか、不明瞭な口ぶりだ。
「ああ、なるほど」
アルフレッドはナタリーの反応に納得したようで、したり顔でうなずいた。
「きみの言うジークフリートは、テスのことではないんだね」
「てっきりきみがテスの名を呼んだのかと。おどろいたよ」
アルフレッドが弟ユーフラテスへと目配せする。
「テスがその名を、よりにもよって魔女であるきみに教えるはずはないものね」
兄のほのめかしにユーフラテスは気色ばんだ。
眉間にけわしいシワを刻み、一歩前に進み出る。
「兄上、それは――」
「ちなみに僕の正式名は、アルフレート・ティグリス・フランクベルト」
アルフレッドは片手をあげて弟を立ち止まらせた。露骨なやりかただ。
ユーフラテスは異議をのみこみ、こぶしを握りしめた。うつむき、軽く首を振る。
どうやらあきらめたようで、大きく息を吐き出した。顔をあげ顎を突き出すと、胸の前でやおら腕を組む。
そうすると彼の鍛えた腕が、いかにたくましく太いことか、よくわかった。かたくて分厚い毛織物の上着に覆われていてさえも。
めぐまれた体躯も手伝って、ユーフラテスの態度はふてぶてしく威圧感があった。
兄のアルフレッドなど彼の貧相な腕に、筋肉のわずかな盛り上がりすら見せることがないというのに。
健康と筋肉のためだとおのれに言い聞かせ、大の苦手である運動を続けたことも、兄にとってはまったくもって無駄な努力だった。
アルフレッドとユーフラテス。
同母兄弟の顔立ちは、それなりに似通っている。だが体質はまるでちがう。気質も価値観も、なにもかも。
不服そうに睨めつけてくる弟を横目に、アルフレッドは自己紹介を続けた。
「古フランクベルト語風にアルフレートと称することより、アルフレッドと名乗ることのほうが多い。だからたいていのひとは、僕のことをアルフレッドとかアルとか。そんなふうに呼ぶよ」




