3 強奪者のホットチョコレート(1)
「君、ホットチョコレートは飲めるかい? 持ってきてあげるよ」
硬直するレオンに、青年はたずねた。
「温かいものでも飲めば、いくらか気も落ち着くんじゃないかな」
古フランクベルト語でエドゥアルト――フランクベルト語ではエドワード。
青年はそう名乗った。そのうえ彼は、おのれの身分をこの国の王子だとも称した。
王子。
そうだ。彼に同じく、王子を自称する狼藉者に、レオンたちは襲われたのだ。
最近の狼藉者は、畏れ多くも王族を名乗るのが流行りなのか。王家に敵対するとかなんとか。政敵やらなにやら、王族の悪評を流さんと画策でもしているのか。
それとも。
王族とはつまるところ、むかしから他者の土地や財産、あまつさえは命までをも奪って栄えてきた一族。強奪者にほかならないのだから、このなりゆきは至極当然。
そういうことなのだろうか。
「ああ。もしかしたら君、ホットチョコレートがなにか、わからない?」
エドワードは、レオンの瞳を覗き込むようにかがめていた身を起こした。
「『レオンハルト二世の時代』にチョコレートはまだなかったのかな。たしか、トゥーニス島から伝わった飲み物だったはずだけど。南島トゥーニスを植民したのは、親愛王アルブレヒトだったよね」
エドワードの口ぶりは、レオンの返事を求める問いかけには聞こえなかった。
それだからレオンは口を閉ざし、エドワードが話すに任せた。
「親愛王はレオンハルト二世の……」
エドワードの細い指が、彼の薄いくちびるをつまむ。記憶をさらうようなそぶりだ。
「ええと、何代か前の王だったような。いや、後世の王だった?」
しばらくするとあきらめたようで、エドワードはレオンへと視線を戻した。不自然なほど大仰に、肩をすくめてみせる。
彼のうねった黒髪がふらふらとゆれ、窓からさしこむ光も同時にちかちかとまたたいては、レオンの目を惑わせる。
レオンはまぶしさに目を細めた。
「悪いね」
エドワードは開き直ることにしたようだった。
「ボクも一応、王子として歴史は学んでいるのだけど、あんまり得意ではなくてさ」
身分差であったり、話題であったり。
複数の理由から、レオンには口をはさむ余地がない。
エドワードは寝台に腰かけたかっこうのまま、機嫌よさげに、滔々とおしゃべりを続ける。
「でもね。ユーフラテス兄上はボクと違って、まっとうなフランクベルト家の王子なんだよ。フランクベルト家だけでなく、百五十年前の各諸侯の勢力分布まで、事細かに把握なされている。本当にすごいよ」
エドワードはレオンの共感を誘うように打ち明ける。
「君も昔、とてつもなく優秀な兄君がいたみたいだから、ボクの気持ちがわかるよね。兄を尊敬せずにはいられないのさ!」
うっとりと陶酔しきった口ぶりのわりに、エドワードは冷静だった。
レオンへと向けられた観察のまなざしはそらされない。
「それはそうとして」
レオンが同調しないことに気づいてか、エドワードは話題をホットチョコレートへと戻した。
「ホットチョコレートは、くだいたカカオ豆を水や家畜の乳に溶かして温めた飲み物だよ」
エドワードは胸のまえで左手を広げると、指先をきちんとそろえ、受け皿のように丸めた。
「シナモンにナツメグ、クローブ、胡椒といった香辛料。それから砂糖と蜂蜜といった甘味料をおのおのが好きに加えて混ぜる」
エドワードの右手が、彼の鼻先までもちあげられる。それからぱっと手が開かれ、なにかを振りかけるような仕草。
王子を自称しながら、彼の道化ぶりは芸人顔負けだ。
目の前のエドワードの姿と見世物小屋の大道芸人やら旅芸人やらの姿とが、レオンには重なって見えた。
サイズぴったりに仕立てられ、上等な衣服に身を包んだエドワード。
サイズの合わない、妙に派手派手しい貴族のおさがりをだぶつかせる大道芸人――いや、これでは一昔前の、宮廷に出入りする者たちの姿だ。
今の時代、大道芸人が宮廷に出入りすることなどありえるのだろうか。
ほとんどの宮廷では、移ろう大道芸人などではなく、正式な楽師を雇い入れていることだろう。
名の知れた役者は、旅芸人に憂き身を窶すのではなく、舞台に留まって称賛を浴びることを好むだろう。
それでは、レオンの脳裏に浮かんだ、貴族のおさがりを身に着ける大道芸人とは、いったいなんだ。
そんな光景を、レオンはいつ見たのだろう。どこからやってきた記憶なのだろう。
まさか、レオンハルト二世の――そこまで思い至ったところで、レオンはあわてて思考を放棄した。
エドワードはあいかわらず、レオンの返事を期待するでもなく、ひとりでおしゃべりを続けている。
「ただ、カカオ豆は溶けにくくてさ。酒や茶のようにさらりと飲めるものではないから、カップに添えたスプーンでかき混ぜながら飲むんだよ」
エドワードはなにかをつまむように、右手の指先をすぼめた。
そのまま、ぐるぐるとちいさく右手首をまわしてみせる。
「のど越しはよくない。ねっとりともたつくし、甘みと苦みが独特で、チョコレートを得意としない者もいる。でも滋養がある」
そこまで言うと、エドワードはなにかに気がついたような、はっとした顔つきになった。
レオンに向かって片目をつむってみせるエドワード。
それから次のように言い添えた。
「チョコレートを医術の補助として用いるのが、オルレアン家の習いでね。君がいっとき在籍した医術学校でも、チョコレートの用法を指導していたはずさ」
医術学校でなされているだろう講義について聞かされ、レオンの顔つきがこわばる。
レオンの医術修学は、チョコレートの用法にまで達していない。
レオンの亡き父は生前、息子の医術学校入学を喜んでいた。
涙をにじませ、赤らんだ目尻。真っ赤な鼻。
レオンの継母である後妻を娶ってからというもの、父は実母の名を久しく口にしなくなった。その実母の墓へ、レオンの合格を報告しに父子で参じた。
父は膝をつき、目をつむって実母の墓に手を当てた。
吹きすさぶ風が、父の薄くなった頭髪や、擦り切れてくたびれたチュニックの裾を巻き上げる。
舞い上がった砂ぼこりがレオンの瞳を刺そうと攻撃してくるので、レオンは片手で目を覆った。
ゆるやかな斜面をのぼったところにある村里から、焦がした麦の香りが風にのって運ばれてくる。それから家畜の獣臭。
あの日は、蜂蜜の樽を売りつける荷馬車が村へやってくる日で、こっくりと甘く濃厚な香りも、わずかに混じっていた。
父は長い間、亡き実母へと祈りを捧げていた。
帰路で父はレオンにぽつりとつぶやいた。
「おまえの母さんも、生きていたら大喜びしただろう」
夕暮れ空をあおぐ父。
茜色に染まる父の横顔を、レオンは見つめた。
実母が生きていたのなら。
医術学校で学ぶはずの、すべての知識と技術をもって、実母の命をきっと救っただろうに。レオンは心の底から、そう思った。
入学のために必要な諸々の費用は、レオンの父が援助を呼びかけた。ゴールデングレインの村人総出で資金を集め、ついには徴税人にまで慈悲を乞うた。
レオンの父は、息子の退学を知らぬまま、この世を去った。
レオンは父の期待を裏切った。そして顔を覚えていない、産みの母をも。
彼らは天から息子を見下ろし、失望に嘆き合ったのだろうか。
レオンが信頼を裏切ったのは、父と母だけではない。レオンはまたしても、家族を守りきれなかった。
ナタリーにジャック、リナはいま、どうしているのだろう。どうか無事でいてほしい。祈ること以外に、いったいなにができるだろう。
レオンは口をきつく引き結び、エドワードを睨めつけた。
彼の言い分を信じるのであれば、彼はレオンから家族を奪った強奪者。その弟であるということだ。




