18 止んだ嵐
ナタリーはレオンへの礼を口にしながら、汗をしたたらせ、慈愛に満ちたほほえみを浮かべている。
レオンは耐えかねて、ナタリーから目をそらした。
ナタリーの腰を定間隔でなでおろす手に、意識を集中する。
てのひらでつつみこむように。それからぐっと強く押し当て、痛みを下方へ押し流すように。
ナタリーの呼吸に合わせて、手を動かす。
優しい、か。
レオンは苦い気持ちを胸にしまいこんだ。
ナタリーがレオンの前世だと言い張る、レオンハルト二世の愚かさも、彼への嫌悪も。なにもかも、今は考える必要がない。
「なんのことでしょう」
レオンは肩をすくめてみせた。
「それより聞いていませんよ」
「何を?」
ナタリーが首を傾げる。
本当に陣痛を苦に感じていないようだ。表情も動きも自然で、無理がない。
「あなたが経産婦だったなんて」
レオンが険のある声で問いただす。
「今回は何人目ですか? 通りで陣痛の間隔が早いわけだ」
「あら。ごめんなさい。聞かれなかったものだから」
ナタリーはキョトン、と目を丸くした。
「二人目だけれど、一人目と二人目で違うものなの?」
「そのあたりの知識はないんですね……」
悪びれなく答えるナタリーにレオンは嘆息した。
「ええ、通常一人目より二人目、二人目より三人目、とお産にかかる時間が短くなる傾向があります」
「確認しなかった僕のミスです」
レオンは棚の上の盥に目をやる。
「あなたが初産だと思い込み、産婆を呼ぶ時間を誤りました。もう村に降りて産婆を呼ぶ余裕はありません」
「構わないわ」
ナタリーは嬉しそうに目を細め、つきでた腹に手を当てた。
「もともとレオンに取り上げてほしかったんだもの」
「………僕は、最初から赤子を取り上げた経験はない」
レオンはためらいながら言った。
「だから、経験豊富な産婆のようにはいかないかもしれません」
「いいのよ。構わない」
自信に満ち溢れた笑みを浮かべ、ナタリーはうなずいた。
汗で光る頬。はりついた黒髪。細められた黒曜石の瞳。ゆっくりと上下する豊かな胸元。
「必ず、あなたも赤子も無事に取り上げてみせます」
レオンは焦げ茶色の瞳に力を込め、ナタリーを見つめた。
「ですからあなたも、最後まで気力を振り絞ってください。苦しくても決して諦めないで」
「誰に言ってるの?」
ナタリーは紅い唇をニイっと吊り上げ、レオンに答えた。
「当然でしょう。母は強いのよ!」
強気を崩さないナタリーにレオンは相好を崩すと、腰を擦っていた手を離す。
囲いをガタガタと揺すって不満を訴えていたジャックは、いつの間にか眠りについていたようで、すっかり静かになっている。小屋の外の嵐も静まり、ナタリーの痛みが去っていることが伺えた。
「今、陣痛はありますか?」
レオンはふと、ナタリーにたずねた。
「いいえ。お休みみたい」
ナタリーが首をかしげる。
ナタリーの答えにレオンは小さくうなずく。そして盥を指差した。
「今のうちに盥に水を張ってきます。すぐに戻りますので、少し待っていてください」
そう言って盥を手にし、水場へと足を踏み出したレオンだが、チュニックの裾がツン、と張られる。振り返るとナタリーが裾を掴んでいた。
「あたしが水を張るわ。だからレオンは側にいて」
言うが早いか。ナタリーが手を振り上げると、盥いっぱいに水が張られる。
「出産直前に魔法を操るなんて……」
レオンは盥を棚の上に置くと、眉尻を下げてナタリーと向かい合った。
「こんなことで体力を失われると困ります」
ナタリーの腰に再び手を押し当て、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように。しかし優しい声色でレオンは語りかける。
「だって心細いの。側にいてよ」
ナタリーは首をふった。
「一人目を産んだとき、レオン……レオンハルトは側にいなかった。殿方が部屋に入れなかったというのもあるけど、あの時レオン……レオンハルトは、」
「レオンでいいですから。構いません。言い直さなくていいんです」
律儀に言い直すナタリーにレオンはほほえみかけ、ゆっくりと腰を擦る。
「………レオンは、あの日、ジークフリート殿下とミュスカデ様のところへ馬で駆けていた」
ナタリーは額に玉のような汗を次々と浮かべ、すがるような目でレオンを見た。
「あたしと、生まれてくる子供のことをどうにか認めさせられないかって――……」
ナタリーの眉間に深く皺が刻まれ、「うっ」と息を詰めるのを見て、レオンはナタリーの足を分娩椅子に載せ、体の向きを変える。
それからまた腰に強く手を押し当て、先程より少しだけ早くなでおろす。
ふぅーふぅー、と荒い呼吸になってきたナタリーに、レオンはいよいよだと覚悟する。
「すみません。下着を下ろしてもいいですか?」
「……ええ。お願い」
レオンは少しためらうも、ナタリーの膝を開いてワンピースの裾をまくりあげ、下着を下ろした。
医師として、女性の下半身を目にしたり触れたりすることは、本来はない。
なぜなら女性の下半身について、夫以外の男が触れることは禁忌だからだ。けれどレオンはこの寂れた村でたった一人の医者もどき。
王都から離れ、中央教会からも離れ。
村の者達は信心深くはある。
しかしながら、村人の決断がたったひとつの道だけであるとは限らない。
信仰を重んじ、貞節を守ること。
それとも病を治して欲しいという希望を託し夫以外の男に晒すことを許し、屈辱に耐えること。
どちらを選ぶかといえば、その決断はそれぞれ。
レオンが口堅く、決して誰にも秘密を漏らさないことを知った村の女達は、次第にこっそりと通うようになった。
だから、レオンは女性の下半身を診るのは初めてではないし、慣れているといえば慣れている。診察において性的な目を向けることはない。
――だけど。これほど悔しいとは思わなかった。
レオンは、これまで診察してきた村の女達の夫君に改めて申し訳なく思った。そして歯を食いしばる。
ナタリーの腹の子はレオンの子ではない。
レオンの前世だという男が孕ませたのだと言われても、それならいいか、とは思えない。それでも。それでも、今回こそは必ず母子ともに無事にお産を終えてみせる。
必ず、生きて、その赤子を腕に抱かせてみせる。赤子を抱くナタリーの笑顔を、見たい。
そして、部屋中に赤子の産声が響き渡った。
小屋の外の嵐は止んでいた。