2 悪魔の子
あたりをすっぽり埋め尽くしていた闇が、上下に分かれて引いていき、代わりにやわらかな光が広がっていく。
レオンはゆっくりと身を起こした。とたん、体が傾ぐ。
後頭部に、鈍く重い痛み。
「痛い……」
レオンは無意識にぼやいた。
後頭部に手をやる。
なにか包帯のようなものが頭に巻かれているらしい。
レオンの指先に触れたのは、やわらかな綿布。乾いた藁のような、彼のぱさぱさの栗毛とはちがう。
「おや」
聞きなれない男の声が、すこし離れた場所から聞こえてくる。
「ようやくお目覚めかな」
レオンは顔をあげた。
ぼんやりと透けて見える、薄手の垂れ布越し。向こうがわに、輪郭のぼやけた人影がある。
布は寝台の天蓋から垂らされていた。
うっすらと緑がかった白布を隔てて、レオンのもとへと淡緑色の光が届く。
この部屋の日当たりはよく、日差しを取り込む窓は大きいのだろう。垂れ布で覆われた寝台全体は明るい。
ここはどこだ。
とまどうレオンの前に、にゅっと白い手がつき出される。
みやびやかで繊細な舞いを見せつけるかのように、その手はもどかしいほどゆったりと動いた。垂れ布が左右に分かたれる。
レオンの横たえる寝台そばへ。
もったいぶった様子であらわれたのは、レオンの見知らぬ青年だった。
「おはよう」
青年はレオンに、にっこりと笑いかけた。
美しい。ぞっとするほど。
それがレオンが最初に抱いた、青年への感想だ。
並外れて美しいのは、青年の容貌だけではなかった。
レオンがこれまでに目にしたことのないほど、優美な衣服を身にまとっている。
白くほっそりとした首。その襟元をいろどる、美しい艶の新緑色の絹織物。絹織物の裾を留めるのは、梟を模した装飾品だ。
小粒の真珠が梟の全身図を象り、彼の瞳の色とおなじ、あかるい緑色の大粒の宝石がふたつ。梟の目に嵌め込まれている。
それから豪奢な上着にも、これまた真珠だ。繊細な刺繍とともに施されている。刺繍の意匠は卵形のブナの葉と、こちらもやはり梟。
梟にブナの葉という組み合わせには、見覚えがある。
いつ、どこで見かけたのか。すぐには思い出せない。
しかし、そんなことはどうでもいい。それよりも。
貴族だ。
レオンはおののいた。目の前の青年は、あきらかに平民ではない。貴族だ。
かつて医術学校で出会った裕福な家の出の生徒でさえ、これほど上等な衣服を身に着けてはいなかった。
「ううん。返事がないなあ」
青年が首をかしげる。つられて彼の黒髪がゆれた。
「君、どうかした?」
青年の背後には大きな窓がある。
寝台を覆う垂れ布が新緑色の房つき組み紐でまとめられ、支柱にくくりつけられている今、そこからさしこむ光はまばゆいばかりだ。
しかし彼の髪は、陽光をたっぷりと浴びても光を透かせることはなかった。
いっさいの光をさえぎる、漆黒の髪。波打つようにうねっていて、美しい艶を放つ。
どこかで見かけたことがあっただろうか。
奇妙な既視感がレオンを襲う。
「頭を打ったと聞いているけど、もしかしてしゃべることすらできなくなっちゃったのかな。そうだとしたら、めんどうだなあ」
青年は思いきり顔をしかめ、細い指で赤いくちびるをなぞった。
「ボク、なにをしたらよくて、なにをしたらいけないんだろ。またあとでとやかく言われるのはイヤだなあ」
『頭を打ったと彼が聞き及んでいる』レオンの容態を心配するでもなく、どうやらおのれの境遇が不安らしい。
なんとも貴族らしい。
レオンは鼻白みながらも、口を開いた。
「いえ、話すことはできます」
「あっ、そうなの? よかった」
ぱっと笑顔になる青年。
邪気の感じられない、いかにも嬉しそうな様子だ。にもかかわらず、レオンは、なぜだか寒気がした。
この笑顔。口ぶり。腹の底が読めない、気味の悪さ。
生まれ育った村でも、ほんのひとときだけ在学した医術学校でも。レオンがこういった種類の人間と出会うことはなかった。
知らず、そういった人物が身近にいたのだとしても、親しく交流をもったことはない。
しかし、レオンの胸がふたたび不可解に疼く。
「あなたは――」
思わずレオンは問いかけた。
はっとして思いとどまる。彼は貴族だ。
平民のレオンが気安く名をたずねることはできない。
「ボク?」
青年はレオンの無礼を咎めることなく応じた。
「ボクは『悪魔の子』だよ」
「は?」
礼も忘れ、レオンは問い返した。
悪魔の子とは。つまらない冗談だ。
それに、あまりに不謹慎だ。
『悪魔の子』呼ばわりされ、疎まれ蔑まれた、産まれたばかりの未成熟児とその母親を思い出し、レオンは心底不愉快になった。
思いきり顔をしかめるレオン。
しかし、すぐさま顔を青ざめさせた。
問い返すのに使った言葉は、たったひとこと。まるで対等な立場であるかのような、ぶしつけな口ぶりだ。
「あれ? 知らない?」
気位の高そうな青年はまたしても、粗忽者の言動を気に留めなかった。
「君っていっとき王都にいたんじゃなかった? 医術学校に入学したよね? すぐに退学したみたいだけど」
なぜ知っているのだ。レオンはおののいた。
目の前の青年は、これまでのレオンの人生で、一度たりとも関わることのなかった人種だ。
彼の身分も、うかがわれる気質も、なにもかも。レオンには馴染みがない。
そんな見知らぬ貴族階級の青年が、レオンの医術学校入学を知っている。それだけではなく、極端に短かった在籍期間と退学までをも。
「はい」
動揺を表に出さぬよう、レオンは慎重に青年を見つめ返した。
「おっしゃるとおり、ほんのいっとき、学徒の身にありました」
「ふうん。ボクの噂話って、平民にまでは届いていないのかな? 嬉しいような、悲しいような」
青年は天をあおいで肩をすくめた。
それから、気を取り直したように、レオンへと向き直る。
「じゃあ、こう言ったら君にもわかる? 『禍王子エドワード』」
レオンが身を置く寝台に、青年が手をつく。
水鳥の羽根がたっぷりと詰まった、ふかふかの布団。青年の手がゆっくりと沈みこんでいく。
青年はにっこりと笑い、寝台に腰かけた。寝台のきしむ、ぎしりという音は立たない。青年の立ち居振る舞いは、きわめて優雅だ。
レオンと青年の瞳が一本線で結ばれる。
レオンのあかるい茶色。青年のあかるい緑色。
目が離せない。
未知の強い力が働いているかのようだ。
相手の瞳の中に、うつりこんだおのれ自身を見ることができる。
ほがらかで屈託のない青年の笑顔だったり、こわばったレオンの顔つきだったり。微に入り細に入り。
「ボクはエドゥアルト・ラウル・フランクベルト。父はフランクベルト現王オットー。母はその側妃、オルレアン家のソフィー。フランクベルト家とオルレアン家の血を引く、この国の第三王子だよ」
悪魔の子、禍王子エドワードの白く細い手が、レオンの華奢な二の腕をたたく。
軽く、ぽん、と。弾むように。励ますように。
「あなたの子孫だ、レオンハルト二世」
レオンは思い出した。
梟にブナの葉という組み合わせ。
それはレオンが入学し、すぐさま退学した医術学校。そこで掲げられる旗に記された意匠だ。
王都医術学校を設立し、現在も支援するオルレアン家。その傘下にある者が、オルレアン家当主から授けられる徽章。
鋭く大きなかぎ爪で枝をつかみ、正面を向く梟。円を描くようにして中央の梟を取り囲むブナの葉。
オルレアン家に縁ありし者の証。
エドワードが相手役となる派生作品「囚われの姫君に、永久の誓いを(https://ncode.syosetu.com/n2132hn/)」がございます。
あわせてご覧いただけますと、とても嬉しいです。




