1 ひしめき、ささやく
ここはどこだ。
視界はすっかりさえぎられている。
鼻先にかかげた手のひら。それすらさえぎるような濃霧。
霧はまるで、おのれの存在を主張しているようだった。
肌に触れる水粒のひとつひとつまで感じとれる。そんな錯覚におちいる。それに、ぞっとするほど冷たい。
目玉や鼻、耳の穴から入り込んでは、心臓を凍らせようとしている。
光は射さない。あたりを包むのは影だ。
とはいえ、まったくの暗闇ではない。濃淡があった。
一色ではない灰色が密度と重量を変え、不規則に形を変える。
はたしていま、この目は開いているのか、閉じているのか。あやふやになってくる。
耳鳴りも絶えず続いていた。
音は緩急の波をともない、伝わってくる。四方を囲われた洞窟の遠くから聞こえてくるような、不明瞭な響きだ。
ときおり、かすかな水音が混じる。しずくが水面を打つときの、ぽたり、ぽたり、という音。
霧と冷気。薄暗がりと、音の響き。
これらをまとめて考えると、どうやら広い外界から隔離され、限定された空間にいるらしい。
腰をかがめ、周囲を手でさぐる。
霧によってか、しっとりと濡れて冷たい。
表層には凹凸がある。となれば、これは岩肌。
いや、それにしては細切れな断裂がある。岩というには、やわらかな感触だ。
木の幹だろうか。ちがう。もっと複雑に絡み合っている。地下茎のようにも感じる。
周囲をとりかこむ壁のような、なにか。
ときおり脈打つように、うごめくものがある。
手を這わせていると、それまでにない深い窪みがあった。底はどこまで続くのか。
慎重に指先をいれる。とたん、生ぬるい風が窪みから噴き出す。
薪が燃える、すすけたような香り。鼻の穴にへばりつくような、甘くて重い、蝋の匂い。湿った毛織物の獣臭。できの悪いすっぱいワインと、それから、兄の髪油の匂い。
「さて。これまでの話を聞いたことで、おまえもそろそろ、政治について興味がわいてきたことだろう。そうだな、レオン?」
ジークフリートは、からかうように弟レオンハルトの目をのぞきこんだ。
兄の目がちゃめっ気を含んでキラキラと輝く。
レオンハルトは気後れしながらも「はい」と答えた。
「では、即位後に検討している政策をいくつか打ち明けよう。今ならばおまえも理解ができるだろう」
ジークフリートは嬉しそうに笑った。
「まずは医術学校設立。つぎに、これまでの都市が主体となった銀行ではなく、国家が主体となる中央銀行の設立。聖職者への課税。そして中央集権の強化だ」
金融の話は政治の話とおなじくらい、よくわからない。
後半の話は、ひとまず置いておこう。
とはいえ。
「医術は、既存の大学で学べるのではありませんか」
レオンハルトは首をかしげた。
「たしかに学べる」
ジークフリートは弟の言い分にうなずいた。
「しかし、すべてが魔術に頼っている。そしてまた、万事がオルレアン家主導だ」
ちらばっていた八つの木製の駒のうち、ひとつが選ばれ、地図上に立つ。
梟の駒が示す位置は、オルレアン侯爵領。
「魔術を学ぶには王への誓約をなす必要がある。誓約には煩雑な手続きが必要だが、魔術のうち医術を学ばんとすれば、ことさら難関な試験がある。試験を受けるに値するか否か、といった認可を得るにも、大学組織とは別に、かならずオルレアン家を通さねばならない。当然、多額の寄付金も必要だ。となれば、魔術を学べる者は一部の富裕層に限られる。出自も思想も偏る。
かといって、これまでのやり方を崩さんとすれば、オルレアン侯の矜持を傷つける。オルレアン家のこれまでの国への奉仕を軽視することはできない」
ジークフリートはそこまで言うと、息をついた。
とまどう弟の反応を眺める。いかにも楽しげだ。満足そうな笑みが兄の顔に浮かぶ。
兄は弟へと、不確定な施策について熱心に説いた。
即位前の現段階ではまだ、夢物語にすぎない。安易に口にすれば、足をすくわれかねない。兄はもちろん、理解している。それでいて、純粋に楽しんでいる。
まだ見ぬ未来へ、夢と希望をめぐらせる、少年のような兄の姿。
レオンハルトは、これまでに見たことがなかった。
「そこでだ」
ジークフリートはふたたび切り出した。
「魔術のない地にも、人体を癒やす術はある。エノシガイオスの巫女が繰るような、まじないの類であれば、我が国の魔術とたいして原理は変わらぬだろう。だが異なる視点に立った術もある。それらを収集選別し、系統立てて学ぶ機関がほしい。とはいえ既存の大学内に設けることは難しいだろう。ならば――」
はっとする。
これはいったいなんの話だ。
しかし、状況を確認したり思考を整理したりといった猶予はなかった。
あっというまに、映像と音がとぎれる。
指先にあった窪みは、すでにない。いつのまにか、ふさがれている。
あわてて、近くへと手を這わせる。
するとまた指先が、深く凹んだところに出会った。
さきほどとは違う、ぬるりと不快な感触。
それからさきほどと同じように噴き出す、生ぬるい風。
湿気った古い羊皮紙とインクの匂い。肺をうめつくしては呼吸を止めるようなカビ臭さ。血液を濁らせるにちがいない鼠の糞臭。
「これは冒涜です」
メロヴィング公子クロヴィスはうつむき、こぶしをふるわせた。
「メロヴィング家の固有魔法を、虚偽に用いるなど。神への冒涜だ。なにより我がメロヴィングを侮辱している!」
「さきに私を侮辱したのは、おまえだ。クロヴィス」
摂政王太子ジークフリートは冷たく切り捨てた。
「だが、その報いではない。私怨は関与せず、公平な裁判をなした結果だ」
「ジークフリート殿下のおっしゃるとおりですな」
メロヴィング公爵オーギュストは、ジークフリートの言い分にうなずく。
「『先王ヨーハンの庶子フィーリプには、捕虜トリトンの王宮内部への手引き、および王の暗殺未遂といった、王位簒奪の謀反等が疑われた。こと重大犯罪においては、法院長であるメロヴィング家当主みずからが、特別尋問にあたることと定められている』――もちろん、ここまではさすがの愚息も承知であると信じておりますが」
オーギュストは息子クロヴィスに横目をやった。
「『しがたってこのたびの事件においても、法院長みずからが被告人を尋問』――つまりメロヴィング家の固有魔法を行使したというわけですな。『結果、被告人フィーリプの潔白は正式に証明された』――と、すべてが法に則り、神への宣誓ののち、公平に裁判がなされた」
「真実と正義を求めるメロヴィング家として、異論はありませんな」
オーギュストは亜麻色の顎鬚をなでながら、断言した。
「王陛下はいかがお考えですか」
クロヴィスは腹の奥底からしぼりだしたような、くぐもった低い声でうなった。
責めたてるようなクロヴィスの視線が、少年王レオンハルトを射抜く。
レオンハルトはうつむいた。
クロヴィスの恨みがましいまなざしを正面から受け止めるには、王としての覚悟が足りなかった。
それだけではない。レオンハルト自身も納得しきれずにいた。
なぜフィーリプに恩赦を与えねばならないのか。
異母兄フィーリプは信用ならない。これまでも幾度となく、薄汚い罠をしかけてきた卑怯者だ。
加えて、レオンハルトに長年仕える誠実な従兄ギュンターも、フィーリプの減刑に反対していた。
「まさか、王陛下までもが同様にお考えではないでしょう」
クロヴィスは追及をやめず、たたみかける。
うるさい。ほうっておいてくれ――と、そこで、ふつり。突然やってきた幻は、またもや突然消え去る。
全身から汗がふきだしている。肌に触れずともわかる。
もうなにも聞きたくない。
どんな些細な窪みにも触れぬように。おのれ自身を守るように。
胸のまえで腕を交差させ、おのれの体をひしと抱いた。
しかし無情にも、生ぬるい風がどこからか吹いてくる。
風は勢いを増し、あっというまに渦の中へと飲み込まれていく。
むせかえるような濃密な血の匂い。いましがた斬られたばかりとでもいうような、新鮮な肉、その脂の匂い。皮膚の下にかくれているはずの腸があらわになったときの、強烈な匂い。
「おまえは王なのだぞ!」
ジークフリートは噛みつかんばかりに、レオンハルトにつめよった。
憤怒のためか、兄の顔は赤黒く染まっている。
兄の体に流れる血は、いまや赤い。そのためだ。
いや、ちがう。
体をめぐる血液。その色が青くとも赤くとも。あるいは、紫紺だろうとも。
皮膚の下に血液が集まれば、肌は赤く染まる。いったいどういった理屈だろうか。
兄の怒りを目の当たりにしながら、レオンハルトはぼんやり考える。
「民心に気をかけ、求心力維持のため、たまの披露はよい。だが王みずから病院を駆けずり回るのみで、主要な政をおろそかにしてどうする!」
ジークリートは弟王の両肩をつかみ、ゆすぶった。
「すべての民に王の慈悲を均等に分け与えんとするならば、個々へのみ足を運ぶことが最善ではないだろう!」
「僕以外の誰も、失われた機能を再現することはできないのです」
レオンハルトはほほえみ、兄の手におのれの手をかさねる。
「彼らは我が国のために犠牲を払った。僕が王であるというのならば、国のために力を尽くした彼らへと、今度は僕が力を尽くす番だ」
「彼らへの損害の補償を否定しているのではない!」
ジークフリートは深いシワをきざんだ額に手を当て、もみこんだ。
言葉が通じない。
苛立ちをおさえようと、ジークフリートはできるだけゆっくりと息を吐き出した。
「おまえは王だ。だからこそ、国全体の益となるよう考え、行動しなければならない」
噛んで含めるように、ジークフリートは弟へ語りかける。
「『彼らを救うな』ということではないのだ。そうではなく――」
「政をせよ、ということであれば、兄上が王となってくださればよいのです」
レオンハルトは、兄のなだめすかしをさえぎった。
弟王の顔には、ヘラヘラと軽薄な笑みが浮かんでいる。
「どうしても青い血の王族が王でなければならないというのであれば、しかたがありません。名目上は僕も王の位にありましょう。
しかしながら、兄上が共同王としてこの国の舵を取ってくだされば、万事がうまくいきます」
「大馬鹿者!」
ジークフリートはとうとう我慢ならず、激高した。
「なぜわからぬ。私が共同王になどなってしまえば、この国は分裂する! おまえと私の意がどうであれ、宮廷は二分するのだ。
ただでさえ今でも、七忠に反目する振興の廷臣が甘言を弄し、獅子王たるおまえを操らんとしているだろうが!」
「彼らは僕を操ろうとしているのではありません」
レオンハルトは兄を冷ややかに眺めた。
「だいたい、ナタリーとの関係を認めてくれる廷臣は、兄上が疑り、卑しんでいる『新興の奸臣』しかいない。
兄上がそうまで『新興の奸臣』を疎むのであれば、なぜ同類であるルヌーフ家のフィーリプを断罪しなかったのですか――」
ナタリー。
そうだ。
彼女はいま、いったいどこに。
幻影が濃霧にかき消される。
灰色の霧は、渦巻き状に急旋回をはじめた。
凍てつく闇の奥に、あかあかと燃える炎が見える。舞いあがる熱灰に、呪詛を振りまく黒煙。
あざ笑うような女のかん高い声。地底をゆるがすような低い嘆き声。
それから獅子の咆哮が、反響しあうようにして、あたりにとどろく。
首に鎖をつながれ、手足をもがれ、心臓を半分えぐり出され。それでも末期には至れぬ。
生身の双眸が現実の光を得る寸前。
ちらと見えたのは、青い輝きをほとばしらせる血だまり。そこへ横たえる、青と黄金のまだらな巨体。
血をしたたらせ、その血で毛皮をぐっしょりと濡らした、みすぼらしく哀れな獅子の姿。




