26 王太后マリーの出立(1)
その日は晴れていた。
足を止め天をふり仰げば、空まで伸びんとする枝葉があり、まるく切りぬかれたような青空が見える。
右は谷。左はなだらかな勾配の坂で、銀肌の木の幹がこちらに覆いかぶさるようになっている。
谷側の木はまっすぐに立っていて、左からは枝や葉がアーチ型に垂れ下がる。その合間をぬって降り注ぐ木漏れ日。光を透かして見える葉脈。
白くて丸いきらきらとした光が、馬車や騎馬を照らす。この門出を森の精霊が祝福しているのだろう。
今は音楽隊が演奏を休んでいるので、おだやかな川のせせらぎや鳥のさえずりも聞こえてくる。
馬車は左右に揺れながら、ゆっくりと進んだ。
天気もよければ、径もよい。茶色い土に転がるのは小石のみ。車輪の回転をさえぎるような木の根っこもなければ、ぬかるんだ水たまりもない。
先頭の馬車には、フランクベルト王太后マリー。フランクベルト人扈従を数名、引き連れている。
すぐうしろにはヴリリエール家のジャンヌとその扈従たち。続いて音楽隊の馬車。
それからエノシガイオスの英雄トリトンの柩、トライデントの戦でフランクベルトが得たエノシガイオス人捕虜、マリーの衣装箪笥や食器類、食料品にワイン。くわえて戦争賠償の品々を積んだ馬車や、贈答用の軍馬が続く。
フランクベルトの騎士は、国境まで騎馬で並走することになっていた。
朗らかな調べを奏でる音楽隊の馬車も騎士同様だ。国境にたどり着いたところで、王都へと舞い戻る。
フランクベルトの騎士が去り、フランクベルトの音楽が止み。
それでもマリーは立ち止まることなく、振り返ることなく、その先を進む。
フランクベルト王太后マリーは、依然として喪に服していた。
ドレスは黒一色の毛織物で仕立てられていて、近くに寄ると、ツルバラの絡まる様子がびっしりと細やかに織られていることがわかる。
首元を覆うのは、肌が透けて見えるような薄い紗とレース。こちらも黒一色だ。
腰は細く、袖とスカートは豊かにと、みごとな強弱がついており、ほっそりと華奢でありながらも背筋のまっすぐのびた、王太后の美しい姿態を際立たせた。
魔除けである黒曜石のやじりも、胸元におさまっている。
しかし顔を覆う薄布のベールは、取り払われていた。
エノシガイオスにつけこむ隙を与えてはならない。道中で王太后と偽物とのすり替えをなしたなどと、言いがかりをつけられかねない。
マリーを乗せた馬車内では、女たちの笑い声が響く。
マリーは努めて明るくふるまった。かつての敵地トライデントへ向かうことに、緊張と不安とを抱く扈従の心をなぐさめるためだ。
ちょっとした道化を演じることくらい、苦ではなかった。
女たちがもっとも話を弾ませるのは、やはり恋の話。
王都に残し、別れを告げた恋人を想っては泣き。同情した女もつられてすすり泣く。
かと思えば、美貌の貴顕が多いと評判のトライデントに新たな恋を求め、胸を高鳴らせる女がいる。
「陛下」
若い娘はうっとりと夢見る瞳で、マリーにたずねた。
「エオス公国大使の言によれば、トライデントの方々はみなさま、リシュリュー家の方々のようにお美しいのだとか。噂は本当でしょうか?」
「どうかしら」
マリーは首をかしげ、もったいぶってみせた。
「あなたがもし、私を美しいと思うのならば、そうかもしれないわね」
そう言ってマリーが馬車の中をぐるりと見渡せば、女たちは皆、期待に頬を輝かせ、嬉しそうに笑った。マリーも笑った。
「まあ陛下! それでは私達、エノシガイオスで用いられる言葉のうち、儀礼的ではない、もっとくだけた言い回しを学ばねばなりませんわ」
先に質問した娘が興奮して叫ぶので、マリーは声をひそめて「エノシガイオスの男が女を口説くときには、はじめにかならずこう言うのよ……」と打ち明け始めた。
女たちの頭がひとつところに寄り集まる。
とりとめのないおしゃべりに興じながら、マリーはふと窓へと視線を走らせた。
――この旅路でかならず、復讐の女神様をフランクベルトから遠く離れた地へ、連れ立たせなくては。
ジークフリートとレオンハルトの所在を見失わせ、ついには息子たちへの執着心を消滅させる。
そのためには、いずれかの焼け野原へと出向く必要がある。
原始の女神である復讐の女神が頻繁に姿をあらわし、とどまるのは、戦争と火災、暗殺だ。わざわいとともにあらわれる。
それから、あとふたつ。マリーがやり遂げなくてはならないこと。
後続を走り、窓からは覗けぬヴリリエール家の馬車へと、マリーは思いをはせた。
哀れな娘ジャンヌを、哀れな人妻にしてはならない。
不幸な結婚にはさせない。
最後に。
もしマリーがこの径をもどることがあるのならば。そのときにはかならず、エノシガイオス公母夫人となっていなければならない。
エノシガイオス公母夫人マリーとして、フランクベルト王レオンハルト、ならびに王兄ジークフリートと再会するのだ。
結い髪にさした二輪のバラへ、マリーは手をのばした。
宮殿を出る直前に、ジークフリートとレオンハルトの兄弟ふたりが母マリーへと差し出したバラだ。
ふたりの息子それぞれが一本ずつ手に持ち、抱擁とともに母の結い髪にさした。
ていねいに棘が落とされた、シャーベットオレンジのフリルが愛らしいバラ。
亡き夫ヨーハンの愛したバラから、かぐわしい芳香が漂う。
◇
兄ジークフリートがまず、母マリーを抱擁した。
そして結い髪の左耳上へ、バラを差し込む。
続いて弟レオンハルトが。
少年王は重そうな獅子王のマントをうっとうしそうに手で払い、母を抱擁した。新王は母王太后の右耳上へと、バラを差した。
母子の視線が交わる。
「レオンハルト国王陛下」
母マリーはまず最初に、息子のうち弟レオンハルトの碧い双眸を見つめた。
「そしてジークフリート摂政王太子殿下」
次に兄ジークフリートを。
「おふたかたが我が国フランクベルトで善政を敷かれ、その御名と功績とが高らかに謳われること。エノシガイオスの地で耳にするのを、心待ちにしております」
「ええ、そうですね」
弟レオンハルトが儀礼的にほほえむ。
「そのような未来が来ることを、約束します」
兄ジークフリートは冷たく凍りついた表情のまま、母を見下ろした。
「では、この母からも約束いたしましょう」
マリーが両手をあげる。
広い袖口のために、たっぷりと布量をとったドレープがすべり落ちた。
手袋で覆われた手首下から肘まで。王太后マリーの白く細い腕があらわになる。
美しい艶の黒絹に包まれた母の指。息子ふたりの頬へとのびていく。
息子たちはすばやく目を通わせると、うなずきあった。
彼らは腰をかがめ、母へと顔を寄せる。
「つぎにあなたがたと再会するときには、かならずやエノシガイオス公母夫人の地位を勝ち取っていることを」
風にとけこむようなささやき声で、しかしながらきっぱりとした口ぶりで、母は息子たちに告げた。
「フランクベルトとエノシガイオス、二国間の架け橋とならんことを――もちろん、あなたがたの祖父リシュリュー侯が望むだろうやり方ではなく」
互いの吐息が互いのくちびるをかすめ、まばたきをすれば、その微風までもが感じられるほどに近く。
同じ色をした碧い瞳に、母子は互いを映しあった。
しばらく見つめあうと、三人の母子は身を離した。
それ以降は、とくべつ予定外となるようなできごともなく。粛々と進んだ。
王太后マリーはヴリリエール家のジャンヌらとともに、トライデントへと旅立った。




