25 亡き夫ヨーハン
一頭の蝶が、庭園に迷い込んできた。
群れや採食域から外れ、風に飛ばされてきたのだろう。フランクベルトでは見かけない種類の蝶。
ツゲの葉よりちいさな翅。黒いふちどりと、鮮やかな紺碧の斑点。
翅の裾にはレースのような模様がこまやかに描かれていて、ちいさいながらも美しく、宝石のような蝶だ。
どこかで見たような気がする。マリーは記憶をさらった。
そうだ。以前、夫ヨーハンと南島トゥーニスに出向いた際に、見かけたのだ。
寒さの厳しいフランクベルトとは対照的に、日差しのまぶしい、常夏の島トゥーニス。
成虫した蝶そのものは、一個体として生き延びることができるかもしれない。
しかし、もし産卵しようとするのであれば。幼虫が育つための食草は、このあたりにないかもしれない。
蝶の孤独と閉ざされた未来に、哀れみを感じるべきなのか。
それとも、『神々の定めた自然界の摂理』という束縛から放たれた蝶が、自由を勝ち取ったことを喜ぶべきなのか。
マリーはなんとも言い表しがたい心地で、ふらふらとさまよう蝶を眺めた。
蝶がバラの花弁に止まる。と、そのとき、生垣とバラの葉や花弁が揺れた。突風に蝶が吹き飛ばされる。
一陣の風が庭園内を通り抜けた。
マリーのベールが、風でひるがえる。
黒い薄布で覆われていた視界がとたん、白い光に包まれた。
薄曇りの空。晴天とは呼べない。
それでもベールがはずされれば、目にまぶしさを感じる。
これまでマリーの思考を覆っていた憎悪のベールが、神々の御手でめくられたのと同じように。
マリーは耳の上あたりへ、手をさまよわせた。
編み込んだ髪にさしたバラの花弁が、指先にふれる。
息子ジークフリートが母の要望に応え、ひとつひとつ棘を落としてから贈ってくれたバラ。風に散ってはいないようだ。
触れることで花を散らせてしまわぬよう、フリル状の先端をそっとなでれば、やわらかくみずみずしい感触があった。
もろく繊細な、うらわかい乙女のような。
いや。それより。
昔、小さな庭園でてれくさそうにはにかんでいた少年。
気弱で優しい幼馴染の姿が思い出される。
ヨーハン。
マリーの亡き夫。ジークフリートとレオンハルトの亡き父。
「ヨーハンを」
マリーはぽつりとひとりごちた。
「彼を愛せたらよかった」
マリーはようやく、過去を見つめなおす心地になった。
たしかに、ヨーハンには、友情と信頼を裏切られた。
父を殺し。七忠を殺し。そうして玉座を奪うような、おそろしく冷酷な人でもあった。
みずからルヌーフ家のカトリーヌを望み、側妃などという身分を新設してまで与えておきながら、昼間の宮廷では、母子ともども、徹底的に無視するような、非情な人でもあった。
「王妃陛下にお仕えるすることができるなんて、まるで夢のようですわ」
初めて顔を合わせたとき、カトリーヌはマリーにそう言った。
ルヌーフ家の娘、カトリーヌ。
のちに王ヨーハンの側妃となり、マリーとは夫を共有した。
ヨーハンの側妃となったのちのカトリーヌは、マリーをひどく嫌っていた。それは知っている。当然のことだろうと納得している。
マリーとて、トリトンの正妻については、どうしたって寛容な心地ではいられない。
しかしマリーにとってカトリーヌは、朋輩のようにも感じられた。
形は違えど、男たちが好き勝手にふるう強権の犠牲者であると。
カトリーヌは瞳をきらきらと輝かせた、純真な娘だった。
宮廷へ出入りすることとなり、彼女とて、それなりに野心を持ち合わせてはいただろう。
しかし、田舎の小貴族の出であるカトリーヌにとって、宮廷で目にするすべてが目新しかったに違いない。
生家ルヌーフでは見ることのなかったのであろう、宮廷の華やかさ。圧倒され、感じ入っている彼女の表情を、マリーはよく覚えている。
出会った当初、カトリーヌはマリーの美貌にも、いたく感動していた。
「なんてお美しいのでしょう」
カトリーヌはていねいな手つきでマリーの髪をすいたり、衣装を着つけたりしながら、うっとりとした口ぶりで感嘆したものだった。
低い家格を出自とするカトリーヌは、行儀見習いとして王妃マリーに仕えていた。
そして獅子王であるヨーハンへ、田舎令嬢らしい崇敬とともに、淡くひそかな憧憬を抱いていた。
それはいつしか、恋慕へと変わった。
肥満王ヨーハンは、見栄えのしない王ではあった。
王都で長く過ごしていたり、栄えた都市を領土に持つような、着飾った色男、屈強な美丈夫に見慣れた貴婦人から見れば、肥満王ヨーハンは、明らかに男としての魅力に乏しい。
しかしヨーハンは、妻マリーが従える扈従たちに対して、身分を傘に着て、横柄にふるまうことはなかった。
卑屈、あるいは気弱とも受け取れる親しみやすさで挨拶を返した。
平民が混じるような、たいした家の出ではない従騎士や下級官吏ですら、カトリーヌを垢抜けない田舎娘だと嘲ったというのに。
フランクベルトの最高権力者として君臨する王ヨーハンそのひとは、けっしてカトリーヌをあざ笑うことをしなかった。
男たちだけではない。
カトリーヌは、慣れぬフランクベルト宮廷で、同性の仕事仲間からも、よく教養の低さをからかわれた。
そんな彼女にとって、獅子王ヨーハンの気遣いが、どれほど心の支えとなったことだろう。
マリーは夫ヨーハンへと、気の毒なカトリーヌを気遣ってやるよう、ひそかに具申したことがあった。
弱小貴族ルヌーフ家の娘カトリーヌ。
王ヨーハンが妾としてとりたててやれば、カトリーヌの立場は安定する。
フランクベルト宮廷中枢では、ほとんど力を持たないルヌーフ家へ、多少なりの影響力を持たせてやることができるだろう。
建国の七忠と呼ばれる七つの大家が独占する強権について、不満をくすぶらせる家々の者たちにとっても、ルヌーフ家のカトリーヌが王の愛妾になることは、朗報となるに違いなかった。
それだからヨーハンは、そういったカトリーヌのみじめな境遇を把握していた。
知っていて、ヨーハンはカトリーヌの恋情を利用した。
王妃マリーが王ヨーハンへと持ちかけたとおりに、カトリーヌは王の愛妾となった。
王妃マリーは、王ヨーハンの気弱な優しさと慈愛が、愛妾カトリーヌへと注がれることを期待した。
しかし。
王ヨーハンは、王妃マリーが想定していた以上の残酷さで、愛妾カトリーヌを扱った。
カトリーヌが愛妾から側妃へと出世する。
それはマリーにとって、予想していたことではなかったが、おおむね想定内であると言えた。
王ヨーハンは幼少期より、優しく穏やかな人物であったからだ。
父王を斃すなどという非情に過ぎる謀反をくわだててまで、強引に婚姻をまとめ、かつての友情を裏切ったことを除けば、ヨーハンは他者への同情心を抱く王族のひとりだった。
愛妾としてとりたてたカトリーヌとともに過ごすうちに、深い同情を示すようになったか。あるいは真実、愛が芽生えたのかもしれない。マリーはそのように思った。
しかし、現実には、事態がどのように転んだろう。
肥満王ヨーハンが哀れな側妃カトリーヌへ、見返りとして送ったことといえば、人肌さみしさの気まぐれに、寝所へ呼び寄せるだけ。
最期には、息子ともども、命まで奪った。
ヨーハンは、優しく臆病なだけの王ではなかった。
彼はたしかに、残酷で非道な顔を持ち合わせていた。
けれど、ヨーハンはいつでも、深い愛情をマリーへと注いでいた。
マリーが望む愛の形ではなかった。それでもヨーハンは、マリーを慈しもうとしていた。
ヨーハンが父殺しをなしたのち、自身の妃として、マリーを選んだとき。
マリーを戦利品として望む心が、彼には事実、存在していたことだろう。
では、ほかには?
ヨーハンが自身の妃として、マリーを望んだ理由。
ほかに、いったいどのような理由があったのだろうか。
ヨーハンが父王から玉座を奪った結果、フランクベルトは急速に反エノシガイオスへと傾いた。
アルブレヒト親愛王は親エノシガイオス派だったのだから、当然だ。
新王ヨーハンがエノシガイオス公女との婚約をきっぱりと断れば、フランクベルト宮廷はつぎのように解釈した。
新王はフランクベルトにはびこる、親エノシガイオスという嘆かわしい風潮に、正義の鉄槌をくださんがため、立ち上がった、と。
旧来の反エノシガイオス派は、穏健であった。
しかしここにきて、過激派の勢いが明らかに上回った。
リシュリューは建国の七忠であり、リシュリュー家当主シャルルは、アルブレヒト親愛王の治世に引き続き、新王ヨーハンの上級顧問を務めていた。
しかし、エノシガイオスにもっとも近しいのもまた、リシュリューだった。
くわえて、リシュリュー家の娘マリーは、エノシガイオス公子トリトンと恋仲。
反エノシガイオス過激派が、はたしてリシュリューをどのように見なし、どのように料理しようとほくそえんでいたのか。
ああ。
マリーは目をつむり、胸の奥底から、ゆっくりと息を吐きだした。くちびるがふるえている。
心優しい幼馴染の、その苦悩の末の決断が、マリーにもわかるような気がした。
ヨーハンは、リシュリュー家の威信を守ろうとしたのかもしれない。
マリーの脳裏に思い浮かぶのは、はにかみやの王太子の姿。
あの懐かしい、小さな庭園で、おずおずとバラを差し出してくれた。
――ヨーハンは、私の名誉を守ろうとしてくれたのだろう。
むかしからずっと、彼は私に、優しかった。
ヨーハンを。彼を、愛せたらよかった。
ヨーハンの冥福を祈ろうにも、夫は己の生命をカトリーヌに捧げてしまった。
それでなくとも、復讐の女神が夫の魂を冥界の、もっとも深きところへと連れ去ってしまっただろう。
亡き夫ヨーハンのためにできることは、もはやなにも残されていない。
マリーにできることがあるとすれば。
それは、夫ヨーハンの忘れ形見、ジークフリートとレオンハルトを復讐の女神の執念深い追跡から、逃してやることだ。
マリーの胸元に下げられた、黒曜石のやじりから熱が伝わってくる。
火の女神が、マリーの内なる炉へと、愛情の炎を灯さんとしているのだろう。




